な素謡の手の内を見せていたようでありましたが、まずだいいちにその方向が違いだしたので、伝六が必死に呼び止めました。
「あっ、だんな! だんな! そっちゃ方角違いじゃごわせんか。今のそのほしの居どころは下谷ですよ、下谷の仲町ですよ!」
 だのに、右門は右へ濠《ほり》ばた沿いに曲がるべきところを断然反対の左へ曲がりながら、ごく澄ましきって、同じほがらかさをつづけました。
「――雪姫の申すには、われ今生に生まれおちて、いまだ情けの露を知らず、いまだ情けの露を知らず、のうのうそこの影法師、わがために情けがあるならば、日のみ子の顔見せてたべ、われみずから露となって散らむ、みずから露となって散らむ――」
 ゆうゆうとうたいながら、京橋めがけてやって参りましたようでしたが、そこの橋のたもとについせんだってから昼屋台を出している『いさこずし』というのへぬうと首をつっ込むと、おちつきはらってあなごをもうその指先につまみだしたものでしたから、あっけにとられて伝六があたりかまわずに口をとんがらかしました。
「ちえッ。すし屋なんぞは今でなくとも逃げやしねえじゃごわせんか! 下谷のほうはいっときを争うってだいじなどたん場ですよ。また夢中になって、がつがつといくつ召し上がるんですか! あなごの味を知らねえ国から来たんじゃあるめえし、いいかげんにおしなすって、早く草香流の腕まえを貸してくだっせえよ」
 しかし、右門は目をほそくしながら、伝六ではなく、そこのおやじに、ごく上のきげんでいったものです。
「ほう。あなごばかりと思ったら、こっちの蛤《はま》のほうもなかなかの味だな。この梅雨《つゆ》どきに、これほどの薄酢だけで、かくもみごとな味をもたせる腕まえは、どうして江戸随一じゃ。これからもちょいちょいやっかいかけに参るによって、よく顔を覚えておきなよ。あなごと蛤をまたたくうちに二十平らげたおおぐらいの男と思ってな――」
 そして、満腹そうに炮《ほう》じ立ての上がりばなを喫しながら、小ようじで並びのいい歯の上下をさかんにせせくっていましたが、ちゃらりとそこへ小銀を投げ出すと、のどを鳴らしながらも手を出しえないほどに、もうさっきからひとり気をあせりきっていた伝六のほうへようやくにふり返って、おどろくべきことをごくさわやかにいったものでした。
「だいぶ手間どらしたな。おかげでじゅうぶんの満腹、これでぐっす
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