その痕跡《こんせき》があった。歴然としてそこの障子の一本に何かつめでひっかきむしったような紙の破れのあとがあったものでしたから、右門の声は突如として力に満ちながらさえだしました。
「切られたその腕は、どうしたのでござる!」
「え! 腕ですかい。腕なら、だんな、ここにころがってますぜ」
さすが伝六もおひざもとの岡っ引き、さしずをうけないうちに先回りして、犯跡の証拠収集に努めていたものか、右門のことばに応じて、庭先からそういう声があったものでしたから、まをおかずに、やっていってみると、いかにも手首はまっかに血を吹いて、これがつい数分まえに人のからだへくっついていたんだろうかと怪しまれるようなぶきみな姿をしながら、縁側つづきの便所のわきに投げすてられてありました。しかも、ひょっと見ると、そこの便所の白壁になにやらべったりと黒い跡がついていたものでしたから、右門はあかりをとりよせて、なにげなくのぞき入りました。と同時に、さすがの右門も、おもわず少しばかりぎょっとなりました。見ると、その黒い色とみえたのは紛れもなく生き血の色で、さながらやつでの葉かなんかを押したように歴然と、切り取った手首のてのひらの跡が押されてあったからです。のみならず、その手形の下には、同じ生き血をもって、次のごとき文字がはっきりと書きしるされてありました。
――あと少なくも十本はこのように手首ちょうだいいたすべくそうろう。
「おそろしくおちついたやつじゃな」
おもわずうなりながら、じっとそこにころがっている腕首を見改めていましたが、と――不意に、右門の鼻先へぷんとにおってきたえもいわれぬかぐわしい不思議な高いかおりがありました。はてな、と思いましたので、腕首を取り上げて鼻先へもっていきながらかいでみると、いかにも不思議! かつて聞いたこともないようなすばらしく上等の香のにおいがするのです。しかも、あきらかにそれが移り香なんでしたから、右門はあわてて腕を切り取られた当の主人のところへやっていって、それとなく身体をかぎためしました。しかるに、奇怪とも奇怪、その移り香はあるじの身についていたものではないのです。とすると、むろん下手人の身についていた移り香で、ただ一度それをつかんだだけでもこんなにかおりの強く乗り移ったところを見れば、よほど高価な香ということが推察できたものでしたから、もう一度丹念にかいでいると、まさにそのときでした。
「くせ者じゃッ。くせ者じゃッ。例のやつめがこちらにも押し[#底本では「り」と誤り]入りましてござりますゆえ、お早くお出会いめされい!」
不意にまた二、三軒向こうの屋敷の中から、やみをついてそう呼び叫ぶ声がありました。まだこちらの始末がつききらないうちでしたから、居合わした警固の面々のいまさらのごとくに二度青ざめたのはいうまでもないことでしたが、伝六もぎょっとなって、血相変えながら警固の面々のあとを追おうとしましたので、すばやくそれを認めた右門が、おちついた声でうしろから呼びとめました。
「まてッ」
「だって、逃げちまうじゃござんせんか!」
「どじだな。今から追っかけていったって、おめえたちの手にかかるしろものじゃねえんだよ。こっちを騒がしておいて、そのすきに隣へ押し入る大胆な手口だけだって、相手の一筋なわじゃねえしろものってことがわかりそうなものじゃねえか。それよりか、ほら、これをな――」
「えっ?」
「わからんか、な、ほら、ぷんといい女の膚みたいなかおりがするんじゃねえか。おそらく、向こうの手首にもこれと同じ移り香があるにちげえねえから、ちょっといってかいでこい」
「なるほどね。ようがす、心得ました。じゃ、それだけでいいんですね」
「しかり――だが、みんなにけどられねえようにしろよ。騒ぎたてると、ぼんくらどもがろくでもない腕だてをして、せっかくのほしをぶちこわしてしまうからな」
「念にや及ぶだ。あっしもだんなの一の子分じゃごわせんか。どっかそこらの路地口であごひげでもまさぐりながら、待っていなせえよ」
自分のてがらででもあるかのように伝六が駆けだしたものでしたから、右門は災難に会った一家の者に悠揚《ゆうよう》として黙礼を残しながら立ち去ると、門を出たそこの路地口のところで、いったとおりあごひげをまさぐりまさぐり、伝六のかえりを待ちうけました。まもなく駈けもどってきた伝六の報告によると、果然切り取られた手首には同じ香のにおいがあったばかりでなく、血の手形の跡もばりばりと何か障子をひっかいた手口も、全然両者が同様であるということがわかったものでしたから、もうそれからの右門は例のごとし――いいこころもちにふところ手で宿に引き揚げていくと、すっぽりと郡内かなんかの柔らかいやつをひっかむって、すやすやとすぐに快い寝息をたてだしました。
4
しかし、朝になると、右門はまだ朝飯さえもとらないうちから、反対におそろしく疾風迅雷的《しっぷうじんらいてき》な命令を伝六に与えました。
「きさまこれからお城下じゅうの宿屋という宿屋を一軒のこらず当たって、例のきのうつけてきたあのさるまわしな、あいつの泊まったところを突きとめてこい!」
「なるほどね、やっぱりそうでしたか。ありゃあれっきりのお茶番と思ってましたが、じゃいくらかあいつにほしのにおいがするんですね」
「においどころか、ばりばり障子をひっかいた音っていうのは、そのさるなんだよ。とんだ古手の忍術つかいもあったものだが、しかし、さるをつかってまず注意をそのほうへ集めておいてから、ぱっさりと腕首を盗むなんていうのは、ちょっとおつな忍術つかいだよ。石川|五右衛門《ごえもん》だって知るめえからな」
「石川五右衛門はようござんしたね。そうと決まりゃ、もうしめこのうさぎだ。じゃ、ひとっ走り行ってきますからね。だんなはそのるす中に、あの、なんとかいいましたね、そうそう、お弓さんか、まだけさは姿を見せませんが、おっつけご入来になりましょうからね。江戸へのみやげ話に、ちょっぴりとねんごろになっておきなせえ。ゆうべの赤い顔は、まんざらな様子でもなかったようでがしたからね」
つまらんさしずをしながらかいがいしく伝六が命を奉じて駆けだしたので、右門はそのあとに寝そべりながら、例のごとくあごの無精ひげをでもつまみそうに思われましたが、どうして、かれもまた今は文字どおり疾風迅雷でした。すぐに裏口伝いを濠《ほり》に沿って城中へ参向すると、ようやくお目ざめになったばかりの伊豆守に向かって、猪突《ちょとつ》に不思議なことを申し入れました。
「つかぬことをお願いいたしまするが、ただいますぐと、ご城中にお使いのお腰元たちのこらず、わたくしにかがしてくださりませぬか」
「なに、かぐ?――不思議なことを申すが、腰元たちのどこをかぐのじゃ」
「膚でござります」
「そちには珍しいいきな所望をまた申し出たものじゃな。よいよい。なんぞ捜査の手づるにでもいたすことじゃろうから、安心してかがしてつかわそうわい。こりゃこりゃ、誰《た》そあるか」
すぐと右門の目的がよめたものか、お手を鳴らしたので、つるの一声はひびきの物に応ずるごとく、たちまち後宮の千姫《せんき》に伝わって、間をおかず色とりどり腰元たちがぞろぞろとそこへ現われてまいりましたので、冗談かと思うと、ほんとうに右門は鼻をもっていって、ひとりひとり彼女らの招かばなびかんばかりな色香も深い膚のにおいを順々にかいでいましたが、すべてでおよそ七十人、しかしかぎ終わったかれの面には、来たときと違って、どうしたことか、はなはだしい失望の色が見えました。少し見込みがはずれたかな――というように首をひねりながら、しばらく考えていましたが、やがてぷいと立ち上がると、ややうなだれて、あっけにとられている腰元たちをしり目にかけながら、さっと引きさがってしまいました。
だが、かえりつくと、そこに三つ指ついてつつましく待っていたものは、前夜来から旅寝の間の侍女として伊豆守がお貸しさげくださったあのゆみで、右門はまだ朝食もとっていなかったものでしたから、ゆみは右門のむっつりとしておし黙りながら考え込んでいる姿を見ると、ことばをかけるのを恐れるように、おずおずといいました。
「あの……朝のものが整ってでござりまするが……」
「おう、そうか! では、いただかしてもらいましょう」
なにげなくお茶わんを差し出して、なにげなくそれをお給仕盆に受け取ったおゆみの腕首をちらりと見守ったときでした。実に意外! たしかに前夜見たときはなかったはずの腕首に、まっかなばらがきのあとが――さるかねこにでもひっかかれたように、赤いみみずばれの跡がはっきりとついていたものでしたから、突然右門の胸はどきどきと高鳴りました。しかも、それがまだ新しいつめの跡らしかったのでしたから、右門はやや鋭く尋ねました。
「そなた、けさほど姿を見せなかったようじゃが、どこへ行ってこられた」
「えっ!」
「おどろかんでもいい。見れば、手首にみみずばれの跡があるが、さるにでもひっかかれましたか!」
と――ぎくりとなったようにうろたえて、その腕首をあわてながらそでにおし隠したものでしたから、右門は心の底までをも見抜くようにじっと彼女の顔を射すくめていましたが、はしもつけないで突然ぷいと立ち上がりました。目ざしたところは、いうまでもなく城中で、ふたたび例のようにどんどんと大奥までも参向すると、突如として伊豆守にいったものです。
「ゆうべお貸し下げの弓とか申すあの小女は、殿さまのお腰元でござりまするか」
「さようじゃ。城中第一の美姫《びき》、まだつぼみのままじゃが、所望ならば江戸へのみやげにつかわしてもよいぞ」
「またしてもご冗談でござりますか、そのような浮いた話ではござりませぬ。あの者の素姓をご存じにござりまするか」
「よくは存ぜぬが、ついこの濠《ほり》向こうの仁念寺《にんねんじ》という寺の養女じゃそうな」
「えっ! お寺! お寺でござりまするとな!」
「さよう――住持が大の碁気違いじゃそうでの。それから、なんでもあの小女に、もうひとり有名なおくびょう者じゃそうなが唖の兄とかがあって、どういうつごうでか、その兄もいっしょに養われているとかいうことじゃわ」
濠向こうの寺、そしてその寺の養女とおくびょう者の唖《おし》の兄? ――なにものか胸中に明察のついたもののごとく、ぴくりとまゆを動かして考え込んでいましたが、そのまま右門はおし黙って、ぷいと立ち去りました。ただにぷいと城中を立ち去ったばかりではなく、実に不思議――それっきりむっつり右門の姿は、どこへ行ったものか、皆目行くえがわからなくなってしまいました。宿へもかえらず、おしゃべり屋の伝六もそこへ置いてきぼりにしたままで、さながら地へもぐりでもしたかのように、煙のごとく城下からぷいと消えてなくなってしまいました。
5
けれども、そのかわりに、同じ日の夕暮れどきから、むっつり右門のいなくなったのに安心でもしたかのごとく、ぽっかりとどこからかひとりの怪しい秩父《ちちぶ》名物のさるまわしが、忍《おし》の城下の羽生街道口に現われてまいりました。見ると、そのさるまわしはもう五十をすぎた老人で、腰はよぼよぼと弓のごとく曲がり、目にはいっぱいの目やにがたまって、顔は赤黒く日にやけ、いかにも見すぼらしいかっこうでした。だのに、怪しいそのさるまわしは、たえず何者かを恐れつつ、それでいてたえず何者かを捜し求めでもするかのように、きょときょととまわりを見まわしながら、どっかりと道ばたに腰をすえると、道ゆく城下の人たちを集めて、一文二文のお鳥目を請い受けながら、じょうずにさるをあやつりました。さるもきわめて手なれたもののごとく、よくさるつかいの命に従いましたが、しかし、さるつかいの目は、さるを踊らしながらも、不断に城下のほうへそそがれました。そして、ちらりとでも虚無僧姿の男が見えると、よぼよぼの腰でありながら、すばらしい早さでどこともなく姿をかくし、見えなくなるとまたどこからか現われて、
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