てました。
「お係りのだんなはどなたでござりまするか! お願いでござります! お願いの者でござります!」
 その声をふと耳に入れたのが本編の主人公――すなわち『むっつり右門』です。本年とってようやく二十六歳という水の出花で、まだ駆けだしの同心でこそあったが、親代々の同心でしたから、微禄《びろく》ながらもその点からいうとちゃきちゃきのお家がらでありました。ほんとうの名は近藤《こんどう》右門、親の跡めを継いで同心の職についたのが去年の八月、ついでですからここでちょっと言い足しておきますが、同心の上役がすなわち与力、その下役はご存じの岡っ引きですから、江戸も初めの八丁堀同心といえばむろん士分以上のりっぱな職責で、腕なら、わざなら、なまじっかな旗本なぞにもけっしてひけをとらない切れ者がざらにあったものでした。いうまでもなく、むっつり右門もその切れ者の中のひとりでありました。だのに、なぜかれが近藤右門というりっぱな姓名がありながら、あまり人聞きのよろしくないむっつり右門なぞというそんなあだ名をつけられたかというに、実にかれが世にも珍しい黙り屋であったからでした。まったく珍しいほどの黙り屋で、去年の八月に同心となってこのかた、いまだにただの一口も口をきかないというのですから、むしろおしの右門とでもいったほうが至当なくらいでした。だから、かれはきょうの催しがあっても、むろん最初から見物席のすみに小さくなっていて、そのあだ名のとおりしじゅう黙り屋の本性を発揮していたのでした。
 けれども、口をきかないからといってかれに耳がなかったわけではないのですから、町人の必死なわめき声が人々の頭を越えて、はからずもかれのところへ届きました。その届いたことが右門の幸運に恵まれていた瑞祥《ずいしょう》で、また世の中で幸運というようなものは、とかく右門のような変わり者の手の中へひとりでにころがり込んできたがるものですが、何か尋常でないできごとが起きたな――という考えがふと心をかすめ去ったものでしたから、むっつり屋の右門が珍しく近づいていって、破天荒にも自分から声をかけました。
「目色を変えてなにごとじゃ」
 そばにいてそれを聞いたのが、右門の手下の岡っ引き伝六です。変わり者には変わり者の手下がついているもので、伝六はまた右門とは反対のおしゃべり屋でしたから、右門が口をきいたのに目を丸くしながら、すぐ
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