葉がおわると、すぐおたがいの顔を見あったが、その眼は友愛塾のさしせまった運命について何かささやきあっているかのような眼だった。
ただ大河無門だけは、その間にも、しずかに眼をとじているきりだったのである。
一三 旅行
それから一週間は、表面何事もなくすぎた。次郎は、一方では、塾《じゅく》の将来についての予感におびえながら、また一方では、道江《みちえ》からも恭一《きょういち》からも、その後何のたよりもないのを気にやみながら、ともかくも予定どおりの行事をすすめていった。季節はもう武蔵野《むさしの》名物の黒つむじが吹《ふ》きあげるころで、朝夕の清掃《せいそう》にはとりわけ骨が折れたが、同時に水がぬるみ、雑巾《ぞうきん》をしぼる手がかじかむようなこともほとんどなくなっていた。
友愛塾では、毎回の講習期間の終わりに近く塾長以下全員そろって三|泊《ぱく》四日の旅行をやることになっていた。それは塾の生活を外に持ち出し、特殊《とくしゅ》な教育|環境《かんきょう》において練りあげたものを、世間という普通《ふつう》の社会環境において試《ため》そうというのが主目的であったが、また近県在住の第一回以来の修了者《しゅうりょうしゃ》たちと親交を結び、そういう人たちの郷土生活の実際に接したいというのも、重要なねらいの一つだったのである。
その旅行に出るのは、すでに三日の後にせまっていた。しかし、計画は早くから研究部でねられ、これまでの次郎の経験などを参考にして何もかも決定されていたので、塾生たちはただその日の来るのを待つばかりであった。
ところで、次郎には、旅行に出る前に果たしておかなけれはならない一つの重要な仕事が残されていた。それは数日前に出願を締め切った次回の入塾希望者の履歴書《りれきしょ》を整備して朝倉先生に提出し、採否の決定を得た上で、それぞれ本人に通知することであった。出願者の数はこれまでの記録をやぶって、ほとんど定員の二倍になっていた。それだけにその銓衡《せんこう》は困難だった。次郎は昨夜までにすっかりその整備をおわり、自分でも採否のあらましの見当をつけておいたが、今朝は、いよいよ朝倉先生にその最後の決定を求めることになっていたのである。
今日もちょうど小川博士の講義の日だったが、次郎はその講義がはじまるのを待ち、一まとめにした履歴書と推薦書《すいせんしょ》とをかかえて塾長室にはいっていった。
「もうちょっとで百名をこえるところでした。それに、志願者の質もたいていはよさそうです。やはり、これまでの修了者の勧誘《かんゆう》がきいたんだと思います。」
次郎は朝倉先生の机の上に書類をおくと、そう言って、いかにも得意そうだった。
「そうか。ふむ。」
と、朝倉先生は、何か考えていたらしい眼でちょっと履歴書のほうを見たが、すぐ机の引き出しをあけて、小さな紙ばさみにはさんだ一|束《たば》の電報をとり出し、それを次郎のまえにつき出しながら、言った。
「しかし、残念ながら、この通りだ。」
次郎はいそいで電報に眼をとおした。おどろいたことには、十五六通の電報が、どれもこれも推薦団体からの志願取り消しの電報だった。志願者の数にして、もうそれだけで五十名近くになっていた。次郎は呆然《ぼうぜん》となって朝倉先生の顔を見つめた。かれは、この五六日、頻々《ひんぴん》と塾長あての電報が来るのを知ってはいた。そしてそれが何か先生の身分にとって重大なことではないかという気がして、不安にも感じていた。しかし、こうした意味の電報であろうとは夢《ゆめ》にも思っていなかったのである。
「おどろいたかね。」
と、朝倉先生はさびしく笑いながら、今度は一通の封書《ふうしょ》を、同じ引き出しから取り出して、
「あらましの事情は、これを見ればわかる。君にはなるだけ心配をかけまいと思っていたが、もうかくしておいてもしかたがない。読んでみるがいい。」
次郎は封書を受け取ると、まず発信人の名を見た。杉山悦男《すぎやまえつお》とあった。杉山は現在文部省の社会教育課に籍《せき》をおいて、主として青年教育の事務を担当している人だが、かつての朝倉先生の教え子で、田沼《たぬま》先生とも近づきがあり、自然友愛塾にもしばしば出入りして次郎ともかなり親しい仲になっていた。次郎はある信頼感《しんらいかん》を抱《いだ》いて手紙をよんだ。
手紙の文面はさほど長いものではなかった。
「……小生としては、立場上、くわしい事情を述べる自由も有しませんし、また述べても今さら何の役にもたつことではなく、単に先生のお気持ちを損《そこな》うだけにすぎないと思いますのでそれは省略いたしますが、とにかく、各府県の社会教育課の青年ないし青年団の方針が、今後はいっそう片寄ったものになるにちがいありません。ことに幹
前へ
次へ
全109ページ中100ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
下村 湖人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング