なく、その第十回目の生活にはいろうとしているのである。その間に、かれはその心境においても、助手としての指導技術においても、また読書力においても、めざましい進歩のあとを示して来た。なお、かれについて特記すべきことのひとつは、かれが学校時代に大して熱意を示さなかった運動競技とか、音楽とか、娯楽遊戯《ごらくゆうぎ》とかいったことにも研究の手をのばし、今では技術的にも一通りの心得があり、それが塾生活の運営にかなりの役割を果たすようになって来たことである。
 朝倉先生夫妻が、その真剣《しんけん》な反省と創意工夫とによって、一回ごとに向上のあとを示したことは、いうまでもない。二人には、一般《いっぱん》の塾生活指導者にありがちな自己|陶酔《とうすい》ということが微塵もなかった。次郎の眼にはすばらしい成功だと映ることも、二人にとっては常に反省の資料であり、検討の余地を残すことばかりであった。「肝胆《かんたん》を砕《くだ》く」という言葉は、古人がこの二人のために残した言葉ではないかとさえ思われるほど、生活のあらゆる面について研究をかさね、工夫《くふう》を積んだ。それは、はた目には苦悩《くのう》の連続ともいうべきものであった。しかも、それでいて二人の気分はいつも澄《す》みきっており、あせりがなく、あたたかでほがらかだった。次郎は、そうした気分に接するごとに、二人がうらやましくも尊くも思え、同時に自分のいたらなさが省《かえり》みられるのだった。
 ある冬の朝、――それはたしか第四回目の塾生活がはじまろうとする数日前のことだったと思うが、――朝倉先生は、居間《いま》の硝子戸《ガラスど》ごしに、じっと庭のほうに眼をこらし、無言ですわっていた。そこへ次郎が朝のあいさつに行った。すると先生は黙《だま》ってかれに眼くばせした。かれにもそとを見よという合い図らしかった。次郎は、すぐ二人のうしろにすわってそとを見た。葉の落ちつくした櫟《くぬぎ》の林が、東から南にかけて、晴れた空に凍《い》てついている。日の出がせまって、雲が金色に燃えあがっていた。数秒の後、まぶしい深紅《しんく》の光が弧《こ》を描《えが》いてあらわれたと思うと、数十本の櫟の幹の片膚《かたはだ》が、一せいにさっと淡《あわ》い黄色に染まり、無数の動かない電光のような縞《しま》を作った。
「しずかであたたかい色だね。」
 朝倉先生は、櫟の林に眼をこらしたまま、ささやくように言った。夫人も次郎も、言葉の意味をかみしめながら、かすかにうなずいただけだった。
 太陽がすっかりその姿をあらわしたころ、今度は次郎が言った。
「あの櫟林《くぬぎばやし》の冬景色は、たしかにこの塾の一つの象徴《しょうちょう》ですね。ことにこんな朝は。――まる裸《はだか》で、澄んで、あたたかくて――」
「うむ。しかし本館からはこの景色は見られない。惜《お》しいね。」
「すると、この住宅の象徴でしょうか。しかし、それでもいいですね。――先生、どうでしょう。櫟の林にちなんでこの住宅に何とか名をつけたら。」
「ふむ。……空林、空林庵《くうりんあん》はどうだ。つめたくて、すこし陰気《いんき》くさいかな。」
「しかし、空林はすばらしいじゃありませんか。ぼく、すきですね。庵がちょっとじめじめしますけれど。」
「それはまあしかたがない。こんな小さな家には、庵ぐらいがちょうどいいよ。閣《かく》とか荘《そう》とかでは大げさすぎる。はっはっ。」
 すると夫人が、
「いい名前ですわ。すっきりして。あたたかさは、三人の気持ちで出して行きましょうよ。」
 それ以来、この簡素な建物を空林庵と呼ぶことになったが、次郎にとっては、庵という字も、もうこのごろでは、じめじめした感じのするものではなくなっている。それどころか、かれは今では、どこにいても、空林庵の名によって自分の現在の幸福を思い、しかもその幸福が、故郷の中学を追われたという不幸な事実に原因していることを思って、人生を支配している「摂理《せつり》」の大きな掌《てのひら》の無限のあたたかさに、深い感謝の念をさえささげているのである。
          *
 次郎は、今、その空林庵の四畳半で、雀の声をきき、その飛び去ったあとを見おくり、そしてしずかに「歎異抄《たんにしょう》」に読みふけっているわけなのである。
 かれがなぜこのごろ「歎異抄」にばかり親しむようになったかは、だれにもわからない。それはあるいは数日後にせまっている第十回目の開塾にそなえる心の用意であるのかもしれない。あるいは、また、かれの朝倉先生に対する気持ちが、「たとへ法然上人《ほうねんしょうにん》にすかされまゐらせて念仏して地獄《じごく》におちたりとも、さらに後悔《こうかい》すべからずさふらふ」という親鸞《しんらん》の言葉と、一脈《いちみゃく》相通
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