》ではない。先生は、どうしてもっと積極的にものをいわれないのだろう。
 朝倉先生は、しかし、あくまでも物やわらかな調子でこたえた。
「たしかにおっしゃるとおりです。で、私は及《およ》ばずながら、いつも塾生たちの心に光を点じ、希望を与《あた》えるような話をすることにつとめて来たつもりなのです。」
「ふん。」
 と、荒田老は、いかにもさげすむように鼻をならした。それから、ずけずけと、
「あんたはやっぱり西洋式ですな。光だの、希望だのって、バタくさいことをいって、生きることばかり考えておいでになる。東洋の精神はそんな甘ったるいものではありませんぞ。東洋では昔《むかし》から、死ぬことで何もかも解決して来たものです。禅道がその極致《きょくち》です。大死《たいし》一番、無の境地に立って、いっさいに立ち向かおうというのです。そこにお気がつかれなくちゃあ、せっかくの静坐のあとのお話も、青年たちを未練な人間に育てあげるだけの結果になりはしませんかな。」
 朝倉先生も、さすがにもう相手になる気がしなかったのか、
「いや、今日はいろいろお教えいただいてありがとう存じました。いずれ私も十分考えてみることにいたしましょう。」
 と、おだやかに話をきりあげてしまった。
 次郎はその時、朝倉先生が、かつてかれに、つぎのような意味のことを、いろいろの実例をあげて話してくれたのを思いおこしていた。
「みごとに死のうとするこころと、みごとに生きようとするこころとは、決してべつべつのこころではない。みごとに生きようとする願いのきわまるところに、みごとに死ぬ覚悟《かくご》が湧《わ》いて来るのだ。生命を軽視《けいし》し、それを大事にまもり育てようとする願いを持たない人が、一見どんなにすばらしい死に方をしようと、それは断じて真の意味でみごとであるとはいえない。」
 次郎にとっては、この言葉は朝倉先生のいろいろの言葉の中でもとりわけ重要な意味をもつものであった。かれは、この言葉を思いおこすことによって、これまでいくたびとなく、かれの幼時からの性癖《せいへき》である激情《げきじょう》をおさえ、向こう見ずの行動に出る危険をまぬがれることができたし、また、かれが日常の瑣事《さじ》に注意を払い、その一つ一つに何等《なんら》かの意味を見出そうと努力するようになったのも、主としてこの言葉の影響《えいきょう》だったのである。それだけに、かれは、朝倉先生が、なぜそのことをいって荒田老を説き伏《ふ》せようとしないのだろうと、それが不思議にも、もどかしくも思えてならないのだった。
 塾生たちは、もうそのころには、とうに食事を終わっていた。来賓もほとんど全部|箸《はし》をおろしており、まだすんでいないのは、目が不自由なうえに、何かと議論を吹《ふ》きかけていた荒田老と、その相手になっていた朝倉先生ぐらいなものであった。しかし、この二人も、話をやめると間もなく箸をおろした。
 来賓たちは、畳敷《たたみじ》きの広間のガラス窓いっぱいに、あたたかい陽《ひ》がさしこんでいるのが気に入ったらしく、食事がすんで塾生たちが退散したあとでも、窓ぎわに集まって、たばこを吸い、雑談をまじえた。そのうちに荒田老に付《つ》き添《そ》っていた鈴田が、平木中佐と何かしめしあわせたあと、朝倉先生の近くによって来てたずねた。
「今日も、午後は例のとおり懇談会をおやりになるんですか。」
「ええ、その予定です。しかし今日は、懇談らしい懇談にはいるのはおそらく夜になるでしょう。私から前もっていっておきたいことは、今日はもう大体、式場で話してしまいましたし、午後集まったら、さっそく、ご存じの『探検』にとりかからしたいと思っています。」
 鈴田はすぐもとの位置にもどった。そして荒田老と平木中佐を相手に、何か小声で話しながら、おりおり横目で朝倉先生のほうを見たり、にやにや笑ったりしていたが、まもなく、荒田老の手をとって立ちあがった。すると平木中佐も立ちあがった。
 三人の自動車が玄関をはなれると、ほかの来賓たちの話し声は、急に解放されたようににぎやかになった。しかし、話の内容は決して愉快《ゆかい》なものではなかった。塾の将来に対する憂慮《ゆうりょ》や、理事長と塾長に対する同情と激励《げきれい》の言葉が、ほとんどそのすべてであった。そして、具体的対策については、何一つ示唆《しさ》が与えられないまま、それから二十分ばかりの間に、来賓たちの姿もつぎつぎに消えて行った。
 田沼理事長だけは、今日はめずらしくゆっくりしていた。そして、来賓たちを送り出すと、すぐ、朝倉先生と二人で塾長室にはいって行った。
 次郎は、一人になると、急にほっとしたような、それでいて何か固いものを胸の中におしこまれたような、変な気持ちになり、もう一度広間にはいって、窓により
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