、あたし、何だか心配なの。次郎さんにはどこか烈しいところがあるんですもの。」
 次郎は苦笑した。子供のころのことや、中学に入学したてに、五年生を相手に戦ったことが、心によみがえって来たのである。同時に、彼は、大垣前校長が口ぐせのように言っていた「大慈悲」という言葉を思いおこし、それを今度の朝倉先生の問題の場合にあてはめたら、自分たちはどういう態度に出るべきであろうか、と考えてみた。しかし、いくら考えてみても、その二つが彼の心の中でしっくり結びついて来なかった。ただ、朝倉先生の留任は「大慈悲」の精神にかなうが、万一にもそのための運動がストライキにまで発展したら、どんな立場から見ても、それにかなわないということだけが、はっきりしたのである。
 道江は、次郎が考えこんでいるのを、自分の言葉のききめだとでも思ったのか、
「やっぱり、どうしても留任運動はおはじめになるの?」
「そりゃあ、はじめるさ。方法はもっと考えるが、このままほってはおけんよ。」
 道江の予期に反して、次郎の答えは断乎《だんこ》としていた。しかし、彼はすぐ何かにはっとしたように、固《かた》く唇をむすび、じっと道江の顔を見つめた
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