ない。その不良が、このごろは曾根少佐の家に出入して、スパイの役目をつとめようとしている。しかもそれは、でたらめな、ただ自分を安全にし、自分のきらいな生徒をきずつけるためだけのスパイなのだ!
 馬田への連想は、彼の視裸を自然に道江の顔にひきつけた。そこには、たった今、彼のために泣いてくれた、うるんだ眼があった。二三日まえまでの彼だったら彼はその眼を可憐《かれん》にも思い、その眼に心から感謝したくもなったであろう。また、その眼をとおして、何か知らほこらしい気持を味わい得たのかも知れない。だが、今はその眼が、恭一の眼とならんでおり、そして恭一の心と調子を合わせているということだけで、彼の気持をもつらせ、戸まどいさせる原因になっていたのである。
 自分は朝倉先生を失った。――この意識は、むろん、もう彼にははっきりしている。
 自分は学窓生活を奪われようとしている。――この意識も、もう彼にとって決してぼんやりしたものではない。
 しかし、彼にとってのもう一つの不幸、――自分は自分の恋人を失おうとしている、という意識は、まだ彼の心の中で、そうはっきりしたものにはなっていなかったのである。それどころ
前へ 次へ
全368ページ中324ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
下村 湖人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング