川に飛びこんだ。
「次郎といっしょに水泳をやるのは、これで三度目だね。」
「ええ。」
次郎はすべての過去を払いのけるように、水の中をあばれまわった。俊亮は、首から下をしずかに水にひたして、それを見まもっていた。
水を出ると、俊亮が言った。
「きょうはもう一度、鶏をつぶそう。誰か呼びたい友達はないかね。」
「新賀と梅本です。今日は、默っていても、きっと学校のかえりに来ると思います。」
次郎はしんからうれしそうに答えた。
「大巻のうちにも、みんなで来て下さるように、そう言っとくといい。徹太郎叔父さんと道江さんには是非ってね。二人とも、おまえのことは誰よりも気にかけていたようだから。」
俊亮はそう言って歩き出したが、あとについて行く次郎の心には何かまた暗いかげがさしていた。道江の名は、もうどんな場合にも、彼の耳に、軽い風のような快いひびきをもつものではなかったのである。
*
次郎の生活記録の第四部をここで終る。考えてみると、この記録は、次郎の生活の中の、わずかに二十日にも足りない期間の記録でしかなかった。その点からいって、それに費《ついや》された紙数は、これまでの記録にくらべて、あまりにも多過ぎたように思える。しかし、この短い期間が次郎の一生にとつて持つ意義は、それだけの紙数に値しないほど小さなものであったとは決して思えない。それは、次郎が時代というものに身をもって接触しはじめ、従って大きな社会に実践《じっせん》の足をふみ入れたという点で。また、はじめて恋というものを意識し、その苦悩を味わいはじめたという点で。そしてまた、それらの諸事情によってかもし出された「運命」と「愛」との新しい葛藤《かっとう》によって、「永遠」への彼の道が、これまでとはかなりちがった様相《ようそう》を呈しはじめたという点で。
過去数年の間彼の心を支配し、いくらかずつその内容を深めて来た「無計画の計画」とか「摂理」とかいう考えが、これからも素直に彼の心の中で成長して行くか、どうか。それは彼を愛する人たちにとって、最も大きな関心事でなければならない。私はそうした点について、注意深く彼を見守り、つづいて彼の生活をつぶさに記録して行くであろう。
[#改段]
附記
「次郎物語」の完成は、いかにそれが貧しい内容のものであろうと、私にとっては、生涯のうちの最も大きな仕事の一つである。そして私は、出来うれば、敗戦後の日本の運命と次郎の運命とがどう結びつくかを書き終るまでは、この物語に別れを告げたくない、と思っている。しかし、それまでには、なお数巻の記述を必要とするであろう。悲しいことには、私は世間の物笑いになるほどの遅筆である。しかも、今年の十月には私は私の六十六歳の誕辰を迎えようとしている。たとい健康にある程度の自信があるとしても、私は急がなければならないという気がしてならない。まして、第三次世界大戦の危機がわれわれの頭上をおびやかしていることを思うと、一切をなげうって、この仕事に没頭すべきではないか、とさえ思うのである。これは誇張でも何でもない。第四部を書き終えた時の私の実感なのである。
しかし、今はただ出来るだけ少い煩累の中で出来るだけ多くの記述をすすめうることを神に祈りつつ、最善の努力を試みるより外はない。なぜなら、私もまた次郎と共に運命と愛との葛藤の中に生きる人間の一人なのだから。
[#地から2字上げ]一九四九・三・一九
底本:「下村湖人全集 第二巻」池田書店
1965(昭和40)年7月30日発行
※「黒+犬」は、「默」で入力しました。
※誤植が疑われる箇所を、「次郎物語 (中)」新潮文庫、新潮社、1987(昭和62)年5月30日発行、1994(平成6)年6月10日4刷を参照してあらためました。
入力:tatsuki
校正:松永正敏
2006年1月31日作成
青空文庫作成ファイル:
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