いつも、僕たちの人間修業なり自治生活なりの基礎になるような、いろんなヒントを与えてもらうことが必要だ。僕はそんな考えで、学寮でたびたび意見をのべてみたこともあるが、残念なことには、現在の僕たちの学校の様子では、そのどちらも見込みがなさそうだ。学生の側では、学生の特権をすてるのも、先生の指導をうけるのも、自治に矛盾すると勘ちがいしているし、先生の側では、どの先生も君子危きに近よらずで、早晩お上から錬成の風が吹いて来るのを心待ちにしている、といったような状態だからね。もし全国の高校がこの調子だと、或いは諸君が高校にはいる頃には、もうほんとうの意味の高校生活なんてどこにもなくなっているかも知れない。僕は、それを思うと、諸君がたとい中学時代だけでもこうして白鳥会にはいって、謂ゆる錬成でない、ほんとうの人間修行をやっていることは非常な幸福だと思うよ。」
 みんなの解散したのは十一時に近かった。解散するまえに、朝倉先生の東京における新しい住所がみんなの手帳に書きこまれた。
 恭一、次郎、大沢の三人も、先生夫妻を見おくって、土手を大かた二丁ほど歩いたが、わかれぎわに先生は、三人の手を代る代る握って、言った。
「そのうち、きっと、君らといっしょに何か大事な仕事をやる機会が来そうだ。私にはそんな気がしてならない。」
 三人は、めいめいに先生のこの言葉の意味を味わいながら、默々として帰った。
 月はみがきあげたように光っていたが、三人ともそれを仰ごうともしなかった。

    一三 送りの日

 朝倉先生の送別式は、翌日の午後、型どおりに行われた。それは全く型どおりであった。何かにおびえたような、きょときょとした花山校長の態度と、生徒たちの顔をたえずさぐるように見まわしていた西山教頭や曾根少佐の眼が、いくらか生徒たちの嘲笑と反感とを招いたというほかは、何のへんてつもない、きわめて平凡な送別式であった。朝倉先生は、ほんの三分ばかり、これまでのどの先生の告別の辞よりも形式的だと思われるようなあいさつをしたに過ぎなかったし、生徒を代表して平尾が述べた送別の辞も、どの先生にも適するような、お定まりの言葉の羅列《られつ》にすぎなかった。また、全校生徒が特別に一円ずつ醵金《きょきん》して贈呈するはずであった記念品も、まだ用意が出来ていなかった。そして、送別式がすんで、生徒たちがまだ講堂から出きらないうちに、朝倉先生は、もう、玄関に待たしてあった人力車にとびのって、駅の方へ急いでいたのであった。
 送別式に何かの波瀾《はらん》を予想し、興味本位でそれを期待していた生徒たちも決して少くはなかった。彼らは、見送りのために校庭に集合しながら、くちぐちに言った。
「つまんなかったなあ。……朝倉先生、もっと何か言うかと思っていたよ。」
「僕は、先生の最後の雄弁をきくつもりで張りきっていたんだが、がっかりしたね。」
「何んだか、ばかにされたような気がするね。」
「うむ。しかし、校長はほっとしたんだろう。」
「校長を安心させて、僕たちを失望させるって法はないよ。」
「朝倉先生も今日はどうかしていたね。」
「妥協したんじゃないかな。」
「そうかも知れん。でなけりゃあ、もう少しぐらい何か言うはずだよ。」
「しかし、辞職してしまってから妥協したって、何にもならんじゃないか。」
「これからさきのことを考えたんだよ、きっと。」
「ふうん、そうかもしれんね。」
「このごろは、一度憲兵ににらまれた人は、よほどおとなしくしないと、日本国中どこに行ってもにらまれるそうだからね。」
「そんなこと、誰にきいたんだい。」
「曾根少佐が言っていたよ。」
「なあんだ、やっぱり蟇《がま》の言ったことか。」
「あいつ誰にでもそんなこと言うんだね。僕もきいたよ。」
「朝倉先生も、ひょっとすると蟇におどかされたのかも知れないね。」
「まさか。」
「しかし、朝倉先生の豹変《ひょうへん》ぶりは、とにかくおかしいよ。あれじゃあ、先生がいつも言っていた信念なんて、あやしいものだね。」
 次郎は、そんな対話を耳にして、なさけなくも思い、腹も立った。しかし彼は先生のために弁解してみる気には、少しもなれなかった。どうせ衆愚《しゅうぐ》というものはそんな程度のものだ。そう思って、心の中で冷笑していた。
 駅の見送りには、生徒たちは一人も歩廊に入らず、駅から東寄りの線路の柵外に整列して見送る慣例になっていた。八百の生徒がせまい地域に整列するので、距離も間隔もない一かたまりの集団になるよりほかはなかった。五年が最前線だった。次郎はその右翼から五六番目のところに位置していた。
 彼は、柵にからだをよせかけながら、何度も腕時計を見た。東京行連絡の急行は、三時五分発になっていた。あと十五分、十分、七分、と、時計の秒をかぞえながら、周囲
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