ら、今度は次郎が、きょう学校での会合の様子を話し出した。彼の調子はかなり興奮していた。俊亮は、しかし、「うん、うん」とかろくあいづちを打つだけだった。西山教頭と曾根少佐とが委員会の席に乗りこんで来たことを話した時には、
「ほう、そうか。やっぱり配属将校がね。」
 と、ちょっと興味をひかれたようなふうだったが、そのあとは、またうん、うんと答えるだけで、次郎にはまるで張合がなかった。
 それでも、話してしまったら何か言ってくれるだろうと、次郎は期待していた。しかし俊亮は、
「先生二人を置き去りにするなんて、お前たちも心臓が強いね。」
 と、笑ったきりだった。
 次郎はとうとうたまりかねたように言った。
「配属将校が生徒をおどかしたり、県庁が父兄をおどかしたりするの、ほって置いてもいいんですか。」
「放っておいていけなければ、どうするんだい。」
 次郎は、さすがに、自分が主唱してストライキをやるんだ、とは言いかねた。
 ざくざくと砂をふむ靴音だけがしばらくつづき、二人はもうそろそろ汗をかきはじめていた。すると、俊亮がだしぬけに言った。
「お前は、きょうは一本立ちが出来なかったようだね。」
 次郎は何のことだかわからないで、父の横顔を仰いだ。
「きょうは、お前たちが学校の門を出て来るのを県庁の二階から見ていたんだよ。」
 次郎は、新賀と梅本とに左右から支えられ、泣きづらをして校門を出た時の自分の姿を想像して、顔があがらなかった。
 すると、しばらくしてまた俊亮が、
「一本立ちの出来ない人間が血書を書くなんて、少し出すぎたことだったね。」
 俊亮の言葉の調子には、少しも冗談めいたところがなかった。次郎は何か恐怖に似たものをさえ感じたのだった。
「しかし、何ごとにせよ、精一ぱいにやってみるのはいいことだ。そうしているうちに、だんだんとほんとうに一本立ちの出来る人間になれるだろう。きょうはまあよかったよ。」
 俊亮は、そう言って急に柔らいだ調子になり、
「それはそうと、お前は小さい頃、父さんとはじめて水泳をやった時のことを覚えているのかい。」
「覚えています。」
 五つの時、里子から帰って、まだちっとも家に落ちつかないでいた自分を、父が大川に水泳につれて行ってくれた時の喜びは、次郎にとって忘れようとしても忘れられない記憶だった。それは彼に、曲りなりにも、家庭に希望を抱かせた最初の機会だったのである。
(しかし、父は、なんで、だしぬけにそんなことを自分にたずねるのだろう。)
 彼は、ふしぎそうに、もう一度父の顔を仰いだ。
「あれからもう十二三年にもなるだろうが、おまえといっしょに水を浴びたのは、あれ以来きょうがはじめてじゃないかね。」
 なるほど考えてみるとはじめてである。次郎は、しかし、そんなことを言う父がいよいよふしぎでならなかった。
「実は、きょう、県庁の二階からおまえのしおれきった姿を見て、妙におまえのことが気になり、心配しながら帰って来ていたんだ。すると、水飼場の近くで、水に頭をつっこんで泳いでいる人がある。顔をあげたのを見るとおまえだ。私は、その時、どうしたのか、まるで忘れていた十二三年まえのことをふいと思い出してね。それで、つい私も飛びこんでみたくなったんだ。」
 次郎は、しみじみとした父の愛情が全身にしみとおるのを感じた。
「二人がいっしょに水泳をやるということが、きょうは妙に運命みたように私には感じられて来たよ。十二三年まえ、おまえがお浜のところからむりやりにつれもどされた時、それからきょう、――たった二度だが、それがふしぎにお前がしょんぼりしている時、ばかりだったのでね。」
 いつもの俊亮だと、そんなことを言うときには、少くとも微笑ぐらいはもらすのであったが、きょうはあくまでも生真面目《きまじめ》な顔をしている。それが次郎を一層しんみりさせ、これまで経験したことのない愛情の重みを彼に感じさせた。
 彼はだまって父について歩くよりほかなかった。
 土手をおりて鶏舎がすぐまえに見え出したころ、俊亮がまた思い出したように言った。
「それはそうと、もうむだ玉をうつのはよした方がいいね。むだ玉は血書だけで沢山だ。時代はどうせ行くところまで行くだろうし、おまえたちが今じたばたしたところで、どうにもなるものではないからね。」
 次郎は、理窟を言えば何か言えるような気がした。しかし、ただだまってうなずいた。父の愛情が今は理窟をぬきにして、彼にすべてを納得《なっとく》させたのである。
 彼のその日の日記には、しかし、つぎの文句が記されていた。
「――父はいつも愛情をとおして道理を説き、道理の埒内《らちない》で愛情を表現することを忘れない。しかし、わが子の安全を希《ねが》うのが現としての情であるかぎり、時として父の説く道理にも、いくらかのゆが
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