ないようなことらしいのです。つまり、自分たちは自分たちの真情を披瀝《ひれき》するだけで、なにも不穏な行動に出ようとしているのではない。むしろストライキなどのような、不穏な行動に出るのを防ぐために、血書を書き血判を求めたのだ。もしそれにも反対する生徒があったら、その生徒こそ却《かえ》って全生徒を不穏な行動にかり立てる者ではないか、というのだそうです。なるほど血書や血判などということは、おだやかではないにしても、生徒の分をこえた行動だとは必ずしもいえない、青年としては、そのぐらいのことをしないでは、本気で留任運動をやったような気がしないだろう、とも考えられますし、それもいけないとなると、自然、もっと悪い方法で感情のはけ口を求める、というようなことにもなるかと存じます。そんなようなわけで、私のせがれも、正面から反対も出来ず、つい代表の一人に加わったというようなわけですが、……ところで、それでは、ストライキのような不穏な行動がそれで実際にくいとめられそうかというと、どうもそうではないらしい。それどころか、血書や血判までして願っているのに、それを容《い》れてくれない、おめおめと引っこんでおれるか、といったような気分が次第に濃厚になって来るらしいのです。私の考えるところでは、ここが非常にかんじんな点で、どうも最初からそうした青年心理をねらって、血書とか血判とかいうことが仕組まれているのではないか、という気がいたすのです。せがれが毎日学校で生徒の動きを見て来ての話によりますと、急先鋒の生徒たちは表立った会合の席ではあくまでストライキに反対をとなえながら、蔭ではひとりびとり[#「ひとりびとり」は底本では「ひとびとり」]の生徒をつかまえて悲憤|慷慨《こうがい》したり、ひそひそとストライキの時期や方法などを話したりしているそうですが、そういうことをききますと、いよいよ私の想像があたっているように思えてならないのです。とにかく、今度の問題は私の見るところでは、決して単純な性質のものではありません。大多数の生徒は、純真な留任運動だと信じてやっているのかも知れませんが、中心になって動いている数名の生徒たちは、決してそうではないと存じます。何でも、その生徒たちは頭もいいし、読書力もあり、いろんな方面の思想にもふれているそうですが、そのうえに、背後から糸をひいている人物もあるらしく想像されますので、われわれ父兄といたしましても、うっかりして居れないかと存じます。」
平尾の父は言い終って眼鏡をはずし、謄写刷《とうしゃずり》の父兄名簿を眼のまえすれすれに近づけて、左右に視線を動かした。すると、馬田の父が、
「ちょっとお伺いいたしますが――」
と、いんぎんな、しかしどこかにとげのある調子でたずねた。
「お話の通りですと、中心になって動いている生徒はごく少数のようですが、もしおさしつかえなかったら、その名前をはっきり言っていただきたいのですが。」
「名前までは、実は、私、たしかめて居りませんので……」
と、平尾の父はいかにも当惑したように頭をかいた。
「ご令息のお口から、それをおききにはなりませんでしたか。」
「私も、実は、その名前がはっきりすればいいと思いまして、一度たずねてみたこともありますが、せがれの方では、それだけは親にも言いたくないと申すものですから、しいてはたずねないことにしています。あの年輩では、こういうことには妙に義理固いものでして、これは、みなさんにもご経験のあることだと存じますが……ははは。」
馬田の父は笑わなかった。ほかの父兄たちも、にこりともしないで默りこんでいる。何だか平尾の父の笑声がにげ場を失って、戸まどいしているという感じだった。
「みなさん、いかがでしょう――」
と、課長がとりなすように、
「ただ今の平尾さんのお話でよほど真相がはっきりして来たようですが、みなさんからも、ご存じの事実なり、ご判断なりをご腹蔵なくお聞かせ願えれば、なお一層はっきりすると存じますが。」
みんなはおたがいに顔を見合わせただけで、やはり默っている。俊亮は、最初から、腕組をして眼をつぶり、少しのぞけり加減に椅子の背にもたれていたが、この時、ちょっと眼をひらいて課長を見た。しかし、すぐまた眼をつぶってしまった。
「馬田さん、何か……」
課長はこびるような笑顔をして、馬田の父を見た。
「いや、私はきょうは何もしらないで参ったようなわけで。……さきほどからいろいろと承って、内々おどろいている次第です。」
「朝倉教諭のことが問題になっていたことは、むろんご存じだったろうと思いますが。……」
「ええ、それは非公式にいろんな方面からきいてはいました。しかし生徒がそのために血書を書いたり、血判をしたりしたことなんか、全く初耳です。せがれは、そんなことについては
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