ように、校訓の大慈悲の精神を僕たちに説かれたんです。」
西山教頭はにがい顔をしている。すると曾根少佐がいかにも大ぎょうに、
「そうだ、その慈悲だ。大慈悲のためには、仏様でも、剣をふるわれるんだ。君はお不動さんの像を見たことがあるだろう。」
次郎は、しばらく曾根少佐の顔を見つめていたが、吐き出すように言った。
「先生のお考えはもうわかっています。僕は西山先生におたずねしているんです。」
「もうよせ。」
と、この時新賀がだしぬけに立ち上って、次郎のまえに立ちふさがるようにしながら、その両肩に手をかけた。そして、座長席の田上をふりかえり、
「田上、きょうはもう閉会にした方がいいんじゃないか。……どうだ、諸君、それがいいだろう。」
「賛成」とさけぶ声が四五ヵ所からきこえた。田上はすぐ閉会を宣した。みんなは、教壇の上で顔を見合わせている西山教頭と曾根少佐を残して、ぞろぞろと立ち上った。
次郎はもうその時には机の上に顔をふせて泣いていたが、新賀と梅本とが、両側から抱くようにして彼を室外につれ出した。
階段から下の廊下にかけて、生徒たちは、いつの間にかどっどっと歩調をそろえて歩きながら、どら声をはりあげて校歌をうたい出していた。
七 父兄会
生徒たちが、学校で、多少劇的ではあるが、この上もなく無作法な会合をやっていたのとほとんど同じ時刻に、すぐ隣りの県庁の二階の一室では、大人たちがおたがいに相手の肚をさぐりあいながら、表面は至極礼儀正しい物の言い方で、生徒たちのことについて「懇談」を重ねていたのだった。
この席につらなったのは、学校関係の県庁の役人数名、花山校長、それに二十数名の父兄たちであったが、そのほかに、警察と憲兵隊のかただといって特別に紹介された私服の人が二人、県庁の役人たちのうしろに、始終さぐるような眼をして陣取っていた。
主催者は、実際はとにかくとして、名目上は花山校長だった。そのあいさつによると、本来なら五年全部の父兄に学校に集まってもらわねばならないところだが、それではかえって生徒を刺戟する恐れもあり、結果が面白くないと思ったので、県当局のご好意に甘えてこの一室を拝借し、一先ずごく少数の父兄だけに集まってもらって、内密に懇談することにしたというのである。
校長のあいさつが終ると、すぐ、一父兄から、今日集まった父兄はどういう標準によって選び出されたのか、という、ちょっときわどい質問が出たが、これに対しては、校長は案外まごつきもせず、むしろそうした質問を期待して答弁を用意してでもいたかのように、いくぶん調子づいて答えた。
「それは県ご当局とも十分お打合わせいたしました結果、学業の成績も相当で、校内で何かの役割をもっている生徒の父兄の中から、各方面の有力な方々を、というような標準でお願いいたしましたような次第です。むろん皆さんのほかにもそういうお方がまだいられると思いますが、あまり多人数になりましてもどうかと存じましたし、なお急いでお集まり願う必要もありましたので、だいたい数を二十名程度にして、なるべく近くにお住まいの方々だけにご案内を差上げましたようなわけで……」
俊亮もその席につらなった一人だったが、彼はどう考えても自分が社会的に有力な地位にある人間だとは思えなかった。馬田の父も来ていた。彼は県会議員だったので、その点では有力な代表者であったかも知れない。しかし、学業成績のよい生徒の父兄であるとは、恐らく彼自身でも考えていなかったろう。列席した父兄の名簿が謄写版《とうしゃばん》ずりにして渡されていたが、その中には、平尾、田上、新賀、梅本、大山、そのほか、よかれあしかれ教師側の注目をひいている、おもだった生徒の父兄の名がならんでいた。そしてどの父兄の顔にも困惑の色がうかんでおり、中には、「ただ今の校長先生のお言葉の通りですと、ほかの方のことは存じませんが、私だけは、どの点から考えましても、この席につらなる資格がなさそうに思えますが、或はどなたかのまちがいではありますまいか。」と、真実不思議そうな顔をしてたずねたものもあった。みんなの中で、校長の言ったすべての条件を完全に具備している人があったとすれば、それは恐らく平尾の父だけだったろう。彼は弁護士で、次期の最も有力な市長候補だと噂されている人だったのである。
校長の説明のあとで、まだ三十歳には間のありそうな、色の白い、いかにも才子らしい顔をした学務課長が立ちあがって言った。
「実は、先生の留任運動というようなことは、本来なら学校だけで処理していただくべき性質のものですが、何しろ、生徒からの願書が校長さんだけにあてたのでなく、知事宛にもなっていますし、なお朝倉教諭退職の理由については、県として直接皆さんの御|諒解《りょうかい》を得ておく方がいい、と
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