う。」
「そうだよ。」
「どうしておやめになるの?」
「それが僕たちにはわけがわからないんだ。」
次郎は、きょう学校で、生徒たちの間に噂されていたことのあらましを話した。それによると、つい一週間ほどまえ、朝倉先生は校長といっしょに県庁に呼び出され、知事から直接の取調べをうけたが、すぐその場で辞職を勧告された。理由は、先生がどこかの講演会にのぞみ、講演のあとで少数の人たちの座談会をやったが、その席上で、最近の大事件として世間をさわがした五・一五事件――犬養首相の暗殺事件が話題にのぼり、それについて先生が率直に自分の所信をのべたのが一部の軍人を刺戟し、憲兵隊までが問題にし出したことにあるらしいというのである。なお校長がいっしょに県庁に呼び出されたことについても、いろいろと噂がとんでいたが、現在の花山校長は、人望のあった大垣校長がこの学年の変り目に新設のある高等学校長に栄転したあとをうけて赴任して来た人で、容貌も、性質も、大垣校長とは比較にならないほど弱いところがあり、おまけに女のように疑い深くて、朝倉先生に対する生徒間の人望をいつも気にしていたので、何かその間に小細工があったにちがいないというのが、ほとんど全部の生徒の抱いている感想である。次郎自身も、むろんそれを確信しているらしく、道江に話す口ぶりの中に、よくそれがあらわれていた。
「でも、朝倉先生は、まだ学校に出ていらっしゃるでしょう。」
「昨日までは出ていられたが、今日は見えなかったようだ。」
「昨日まで出ていらしったのなら、ほんとうかどうか、まだわからないわね。」
「しかし、県庁の学務課に出ている人の子供がそう言っているんだから、みんなほんとうだと思っているんだ。」
「先生にじきじきお尋ねしてみたら、どうかしら。」
「そんなことしたって、先生はほんとのことを言やせんよ。つまらん先生なら、すぐ言うんだが。」
道江は、女学校の先生たちの中に、たずねもされないのに学校における自分の立場などを話し、それとなく生徒の同情を買おうとするような先生が何人もいるのを思い出して、ちょっと苦笑した。そしてしばらく何か考えていたが、
「女学校では、先生のことだと、まるで根も葉もない噂が立つことがあるのよ。」
「そうかね、しかし朝倉先生のことはどうもほんとらしい。こないだ白鳥会の時にも、五・一五事件のことを話し出して、ひどくこのごろ
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