ことは言わなかった。
「県庁の方では、私からお前によく話して、血書を撤回させるようにしてもらいたい、と言っていたんだが、それはもうお前ひとりの自由にはなるまいし、第一、撤回するのがいいことか、わるいことか、私には見当がつかなかったので、いい加減に答えて置いたよ。」
そう言ったきりだった。
話をきいていて、新賀と梅本とがすぐ心配になり出したのは次郎のこれからの立場だった。二人は俊亮のような父を持っている次郎の幸福を内心うらやみながらも、次郎が血書を書いた本人だということを、そんな席上で平気で発表してしまった俊亮に対して、何か不平らしいものを感じないではいられなかったのである。次郎は二人とはまるでちがったことを考えていた。彼は何よりも県庁のやり方を卑劣だと思った。それがむやみに腹立たしく、さっきからどうなりおさまりかけていた権力に対する反抗心が、それでまたむくむくと頭をもたげ出していたのだった。
俊亮は、しじゅう次郎の様子に注意しながら話していたが、話し終ると、これで何もかもすんだ、というような顔をして言った。
「今日は風がないので県庁の二階も暑かったよ。しかし、やっとせいせいした。やはり水はいいね。」
次郎も、新賀も、梅本も水にひたったまま、むっつりしていた。水面にならんだ四つの顔がただ眼だけを動かしている。
しばらくして、新賀が何かふと思いついたように梅本に言った。
「血書は、こうなると、やはりおとなしく撤回した方がいいんじゃないかね。どうせもう役には立たたないし、……」
「そうだ。僕も今そんなことを考えていたところだ。本田からは言い出しにくいだろうから、僕たち二人でみんなに相談してみよう。」
すると次郎が、
「僕は不賛成だ。」
と、おこったように言って、俊亮の顔を見た。
俊亮は、しかし、三人の言葉を聞いていなかったかのように、急に水から上半身をあらわし、
「おっ、少し冷えすぎたようだ。次郎はもっとあびて行くかね。父さんは先に帰るよ。」
そう言ってさっさと水を出た。
次郎は、新賀と梅本の顔を見て、ちょっとためらったふうだったが、すぐ、
「僕、さきに失敬するよ。」
新賀も、梅本も、何か意味ありげに、大きくうなずいた。
間もなく俊亮と次郎とはならんで土手をあるいていた。水を出たばかりで汗は出なかったが、顔にあたる空気はいやに熱かった。
歩きなが
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