言って立って行った。
「話って何だい。」
 徹太郎は大して気にもとめないような調子でたずねた。道江は顔を赤らめてぐずぐずしている。
「まさか一生の大事ではあるまいね。」
 徹太郎は、そう言って笑った。次郎はその瞬間ちょっと固い表情になったが、すぐ自分も笑いながら、道江に代って始終を話した。話しているうちに、彼は自分の言葉の調子が次第に烈しくなって行くのをどうすることも出来なかった。
 徹太郎はきき終って、
「ふうむ――」
 と、うなるように言ったが、
「そりゃあ、道江さんがここから学校に通うのはいい。そうする方が一番いいと思うんだ。しかし、学校の行きかえりに、次郎君が道江さんの用心棒になるのはどうかと思うね。」
 次郎は、ぐらぐらと目まいがするような感じだった。徹太郎は、いつになく沈んだ調子で、
「第一、君は今そんなことに気をつかっている時ではないだろう。君の学校の問題は決して容易ではないようだぜ。まだ噂だけで、はっきりしたことはきかないが、もう警察や憲兵隊が動き出しているというんじゃないか。」
 次郎は、朝倉先生の家をあれほど重くるしい気持になって出て来ながら、馬田と道江のうしろ姿を見た瞬間から、学校の問題がまるで自分の念頭から去ってしまっていたことに気がついて、愕然《がくぜん》となった。
 ついこないだ、朝倉先生のことで道江と話しあった時、道江の自分に対する心づかいを、あれほど無造作に、――考えようでは侮辱とも思えるほどの無造作な態度で退けた自分が、きょうは、たとえわずかな時間にせよ、道江の問題に夢中になって、朝倉先生のことをまるで忘れてしまっている。何という矛盾だろう。いや、何という軽薄さだろう。
 彼は、自信を失った人のように、力なく首をたれた。徹太郎叔父に対しても、道江に対しても、恥ずかしさで胸がいっぱいである。
「何しろ、朝倉先生の退職の理由が理由だし、君たちの行動を当局では極力警戒しているらしいんだ。万一ストライキにでもなったら大変だぜ。」
「ストライキには、僕、絶対に反対するつもりです。」
 次郎はやっとそれだけ答えた。ストライキ反対の理由が、当局のためでなくて朝倉先生のためだ、ということをつけ加えたかったが、まだそれを言うだけに気持がおちついていなかったのである。
「それならいいけれど、――」
 と、徹太郎はちょっと考えてから、
「しかし、昨日お父
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