つば》のついた刀やら、蒔絵《まきえ》の箱やら、掛軸やら、宝物らしいものが沢山あったようだ。それにくらべると、今は何という貧弱さだろう。
そういえば、僕が正木の家に預けられたのは、あの売立のあった晩だった。正本の祖父が、だしぬけに僕を預ると言った時のことは、今に忘れられない。その時には、なぜ祖父が僕を預ると言い出したのかわからなかったが、今になってみると、よくわかる。――僕には、僕の気づかない危機が何度あったか知れないが、そのたびに僕を救ってくれた人があったのだ。
危機に誘いこまれるのも運命、危機から救われるのも運命。そして、人間の運命の大部分を支配するものは愛憎の波だ。僕は、すべての人間の運命のために、このことを忘れてはならない。しかし、その愛憎そのものもまた運命だとすると、僕はどう考えていいかわからなくなる。
僕は、がらくたばかりのような家具を祖母に指図されて棚からおろしながら、そんなことを考えた。
八月二十七日
今日も朝から家具の始末で忙しかった。仏壇の取片付けにも手伝ったが、亡くなった母の位牌《いはい》はもうかなり古びいていた。淋しい色だった。僕は、汗ばんだシャツの上から、それをちょっと胸に押しあててみた。その時、縁側で書類をよりわけていた父が僕の方を見たが、すぐ眼をそらして、何とも言わなかった。
母は午後から、今度引越す家の掃除をしておくと言って、出かけていった。
あすはいよいよ引越である。夜、父は近所に挨拶してまわった。
八月二十八日
荷物は馬力三台で十分だった。昼まえにその積み込みを終り、人夫たちといっしょに握り飯を食った。父は、祖母に、俊三をつれて一足先に行くようにすすめたが、祖母はなぜか自分は一番あとから行くと言ってきかなかった。それで父が俊三といっしょに先に行き、僕は祖母と二人であとに残ることになった。
二人が出て行くと、祖母はがらんとした家の中を一わたり見てまわり、それから僕に戸じまりを命じた。
荷馬車が動き出したのは一時過ぎだった。いよいよ二度目の没落行だ。むろん家に未練はない。ただ兄弟三人が机をならべていた二階にかすかな愛着があるだけだ。その点では気が楽だった。しかし、祖母と二人、照りつける日の中を、荷馬車のあとから、汗と埃《ほこり》になって歩く姿は、あまりにもみじめな没落行ではなかったろうか。
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照りかわく
ほこり路《じ》に
七十路《ななそじ》の
人の影
いともちいさし
ちさきまま
消えやらぬ
そのかげよ
愛憎は
げにも果てなし
[#ここで字下げ終わり]
僕は、歩きながら、こんな詩を作った。自分ながらいやな詩である。
こんどの家は、なるほど古い百姓家だ。しかし、すぐそばに北山から流れて来る水のきれいな小川がある。小川の土手には松の並木もある。近くに土橋がかかっており、その袂には栴檀《せんだん》の古い木があるので、その橋を栴檀橋というのだそうだ。僕にはその名称も気に入った。それに家が古いといっても、建てかたは頑丈で、土間は馬鹿に広いし、おまけに総二階だ。二階に天井がなく、煤《すす》けた藁屋根の裏がまる見えなのが欠点だが、その代り、松並木や青田が広々と見渡せる。町の店屋なんかよりいくら気持がいいか知れない。
大巻の祖母と徹太郎叔父が手伝ってくれたので、道具は日のくれないうちにあらまし片づいた。夕食も大巻から運んでくれた。大巻の家までは、ほんの二三分である。
八月二十九日
大巻の祖父が村の大工をつれて来て、父と養鶏場設計の相談をはじめた。母もそれにはめずらしく進んで自分の考えをのべた。父はこないだから読んでいた養鶏の本をひろげて、鶏舎の図面などを見ていたが、あまり意見をのべず、たいていは母の考えに従った。そして、「何事も経験だからな」と言った。祖母もそばで相談をきいていたが、あまり機嫌はよくなかった。
八月三十日
朝、俊三と二人で土手をあるき、栴檀《せんだん》の古木を見に行った。思ったほど大きな木ではなかった。木の陰に茶店があったが、中から女の人が出て来て、
「あんた達は本田さんの坊ちゃんでしょう。」
と言った。そうだと答えると、
「まあおはいりなさい。」
と言って、駄菓子などを盆にのせてくれた。横の壁に「栴檀茶屋」という額がかかっている。奥の方にはかなりりっぱな座敷があるらしい。僕には、その女が何だか料理屋なんかにいる女のように見え、変なうちだという気がしたので、すぐ帰ろうとした。すると、
「昨日は主人が留守だったものですから、お手伝いもしませんですみませんでした。お母さんによろしく言って下さいね。」
と、駄菓子を袋に入れて、無理に俊三の手に握らせた。
帰ってから、母にその話をすると、その茶店の主人が僕たちの家主だということだった。夫婦とも百姓ぎらい、それに子供がないので、あんなところに茶店だか別荘だかわからない家を建てて、気楽に暮らしているのだそうだ。
「あの小母さんは慾がなくて面白い人だよ。だけど、気に障《さわ》ると誰にでもくってかかる人だから、用心してね。」
と母は言った。
兄とお浜とに引越をした報せを書く。まだ安心してはならないという気もしていたが、僕の手紙の文句はひとりでに明るくなってしまった。
夜はみんな大巻におよばれ。鰻《うなぎ》[#「鰻」は底本では「饅」]の蒲焼が沢山出た。
八月三十一日
今日でいよいよ夏休みも終る。休みのうちに家のことが一先ず片づいたのは大いによかった。学校がかなり遠くなったが、一時間ぐらい歩くのは何でもない、行きかえりには詩でも作ろうと思う。白鳥会の日に帰りが晩《おそ》くなるのがちょっと不便だが、それも大したことではない。
新しい出発だ。学校も、家庭も、そして僕自身の心も。
だが、この新しい出発にきっかけを作ってくれたものは何だろう。僕はそれを考えて今さらのように驚いた。春月亭のお内儀が、いや、番頭の肥田が、間もなく鶏に新しい卵を生ませようとしているではないか!
「世に悪しきものなし」――僕は何かで見たそんな言葉を思い起した。そして「摂理」のふしぎさについて詩を書いてみたいと思ったが、急にまとまりそうにもなかった。
一七 すべてよし
日記の抜書きはこの程度で終る。次郎は、ともかくもこうして、かなり明るい希望を抱いて新学期を迎えることが出来た。そして、彼のこの希望は、少くとも父の新しい事業に関するかぎり裏切られたとはいえなかったようである。
ぽつぽつとではあったが、鶏舎はしだいに拡張され、その年の暮までには、だいたい当初のもくろみどおりのものが完成した。そして翌年の春には、どの鶏舎にも白色レグホンやミノルカがさわがしく走りまわるようになり、生まれる卵の数も日に日に多少ずつ殖《ふ》えて行った。また養鶏のほかに、菜園も耕され、その一部には草花の種も蒔かれた。そして、おいおいには、広い土間や二階を利用して、養蚕もやってみたい、という話さえ出るようになったのである。
俊亮とお芳とは、ほとんど朝から夕方までいっしょになって仂いた。お芳は最初のうち、自分で煮炊きまでやっていたが、鶏舎の増築につれて次第に手がまわらなくなり、とうとう、お金ちゃんという近所の小娘を雇い入れて、台所のことを手伝わせることにしたのだった。俊亮は、お芳といっしょに仂きながら、彼女にふしぎな能力があるのを発見して、驚くことがしばしばだった。彼女は何事にもとくべつに頭をつかって考えたりするふうはなかった。また、どんなに忙しい時でも決して急ぐことがなく、足どりさえいつものとおりだった。それでいて、同じ鶏舎の仕事をやっても、俊亮よりは無駄がなく速いし、急所をはずしたことなどめったにない。彼女がいつも無口でほがらかな顔をしているだけに、俊亮にはそれが一層ふしぎに思えたのである。
(経験というものは恐ろしいものだ。)
俊亮は、はじめのうち、そんなふうに思っていた。しかし、よくよく考えてみると、お芳のそうした能力は養鶏のことばかりにあらわれているのではない。これまでだってべつに気をつかって整理しているようなふうでもないのに、箪笥の中にせよ、戸棚の中にせよ、いつもきちんと片づいており、お芳に任かされた限りは、どんな小さいものでもその在りかがすぐわかった。気のきかない女だと他人にも思われ自分でもそう信じているらしい彼女のどこに、そうした能力がひそんでいるのだろうか。俊亮はおりおりそんなことを考えて首をふった。そしてこの頃になって、彼はやっとそれを彼女の正直さに帰するようになったのである。
お芳は、実際、腹のどん底まで正直な女だった。その正直さが彼女の顔に無表情なほがらかさ――それはなみはずれて大きな笑くぼのせいでもあったが――を与え、彼女の唇から自己弁護のための饒舌さを奪い、彼女を一見気のきかない女にしてしまったらしい。そして、もし彼女自身でも、自分を気のきかない女だと信じていたとすれば、それもやはり彼女の正直さのゆえだったにちがいないのである。
明敏という言葉と、愚鈍《ぐどん》という言葉とは、それぞれ二つの意味をもっており、その一つの意味では、神の国において同義語であり、もう一つの意味では、悪魔の国において同義語であるが、お芳が世間の眼から見て愚鈍な女だったことに間違いはないとしても、それはたしかに前者の意味においてであったのである。俊亮には、このごろはっきりとそれがわかって来た。
そして、もし次郎が、将来、愚鈍という言葉に二つの意味があるということを知る機会があるとしたら、彼は、彼の第二の母を、彼が現在尊敬しはじめている以上に、――或は恐らく朝倉先生を尊敬するのと同じ程度に、尊敬せずにはいられなくなるかも知れない。そして、そうした尊敬の念が彼の心に湧いた時こそ、彼は、朝倉先生に学び得た「白鳥芦花に入る」精神や、「誠」や、「円を描いて円を消す」心構えやらを、真に会得することが出来るであろう。
筆がつい横にそれてしまったが、俊亮のお芳に対する信頼は、そんなわけで、養鶏をはじめてから急に深まって行き、信頼が深まるにつれ、事業はいよいよ調子づいて来た。そして心配されていた恭一の学資も、最初の二三ヵ月こそ多少やりくりを必要としたが、とにかく送るには送ったし、その後まったく問題ではなくなって来た。恭一は、それでも不安だったのか、或は他に何か考えがあったのか、やはり家庭教師をつづけていたらしかった。しかし、年末の休みに予告もなくひょっくり帰って来て、二三日家の様子を見ているうちに、すっかり安心したらしく、自分から次郎に言った。
「もう学資のために仂くのは止すよ。これからは大沢君とも相談して、べつの意味で仂いてみたいと思っている。」
こんなふうで、次郎には何もかもが楽しくなって来た。そして、恭一のそうした言葉からの刺戟もあって、毎日学校から帰って来て鶏舎や畑の手伝いをするにしても、それを単なる手伝いとは考えす、自分自身の仕事として、その仕事の中から出来るだけ多くの意味をくみとろうとつとめた。それが、白鳥会における彼の存在を、徐々にこれまでとはちがったものにしはじめたことはいうまでもない。彼は、鶏や野菜の話から、しばしば、生命についての彼のいろいろの感想を述べた。その中には、生命とその環境とか、生命の自律性と調和性とか、或は自然と道徳とかいったような問題にふれることも稀ではなかった。ある時、彼は、「鶏でも野菜でもはじめにいじけさすと、たいていは取りかえしがつかないものだ。」と言って、彼の経験した実例をいろいろと話していたが、ふと、これは自分のことを言っているのではないか、という気がして、急に口をつぐんでしまったことがあった。しかし、そんな時のいやな気持も、あとに尾を引くというようなことは、この頃ではもう全くなくなっていた。そして、その理由を彼自身で反省してみて、やっぱりこれも環境のせいだ、というふうに考え、人知れず微笑したくらいだったのである。
みんなが明るく、生き生きとなるにつれて、ただひとり、不機嫌
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