のものでなかったということは、彼の生命の健全さにとって、何という仕合わせなことであったろう。
 次郎が、ついに母の至純な愛をかち得たときの喜びは、それが久しく拒まれていたものだっただけに、限りなく大きいものであった。この時の彼の喜びこそ、彼を「永遠」への門に近づける第一歩だったとも言えるであろう。彼の愛を求むる心の態度は、それを一転機として飛躍的に深まっていった。彼は、それ以来、もう完全に一箇の自然児ではなくなったのである。そして、間もなく、母の死という悲しい運命によって、無限に尊いその愛が失われた時でさえも、彼は、その死を乗りこえて母の愛を信ずることが出来たのである。
 むろん、彼がこうした戦いを戦いぬく力は、彼自身の内部だけにあったとは言えない。もし、彼を里子として育ててくれた乳母のお浜の、ほとんど盲目的だとも思われるほどの芳醇《ほうじゅん》な愛や、彼の父俊亮の、聰明《そうめい》で、しかも素朴《そぼく》さを失わない奥深い愛が、いつも彼の背後から彼を支えていてくれなかったならば、そして、また、彼が物心づくころから、しばしば入りびたりになり、あとでは、生家の没落のために、ただ一人その家
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