、かりに帳消し出来たとしても、帳消しにすることによって次郎が現在以上の人間になれると請合《うけあ》えない以上、今さらとやかく詮議《せんぎ》立てしてみても、はじまらないことなのである。
 次郎について、われわれの知っておかなければならないもっと大事なことは、神のみが知る彼の天性が、彼のきびしい運命と取っ組みあって行くうちに、彼が一個の生命としての健全さを失いはしなかったか、ということである。彼の天性が、天性のまま伸びたかどうかは、「永遠」に向かって流れて行く生命の立場からは、元来大した問題ではない。生命の流れは「運命」の高低によって、あるいは泡立ちもしようし、あるいは迂回《うかい》もしよう。また、時としては、真暗な洞穴《ほらあな》をくぐる水ともなろう。かりに、最初東に向かって流れ出したのが西に向きをかえたとしても、途中で滞《とどこう》りも涸《か》れもせず、そして、運命の岩盤の底からでさえも新しい水を誘い出して流れに力を加え、たゆむことなく「永遠」の海に向かって流れることをやめないならば、それは一個の生命として健全さを失ったものとは言えないであろう。大事なのは、次郎が果してそうした健全な生命の持主であったかどうかということであるが、その点では、われわれは彼をある程度信用してもよかったようである。
 次郎は、よかれあしかれ、3たえす何かの喜びを求める少年であった。そして求めるためには、決して立ちどまることを肯《がえ》んじない生命の持主であった。彼は、彼の幼年時代を、すべての健康な子供がそうであるように、ひとびとに愛せられる喜びを求めて戦って来た。そして求めた愛が拒《こば》まれると、彼の戦いは相手に対する反抗や、虚偽の言動となり、また第三者に対する嫉妬ともなって現れたのであるが、それはむしろ、求むる心の熾烈《しれつ》さを示すものに外ならなかったのである。――求むる心は水の流れと何様、その流れが急であればあるほど、障碍にぶつかって激するものだが、このことは、幼い子供をもつ母親にとって忘れられてはならないことなのである。それは、幼い子供が何よりも烈しく求めるものは母の愛だからである。次郎の母が、次郎が十一歳になるまで、このことに気がつかなかったということは、次郎にとっても、母自身にとっても、何という不幸なことであったろう。しかし、回時に、その不幸が次郎の求むる心を打ちひしぐほどのものでなかったということは、彼の生命の健全さにとって、何という仕合わせなことであったろう。
 次郎が、ついに母の至純な愛をかち得たときの喜びは、それが久しく拒まれていたものだっただけに、限りなく大きいものであった。この時の彼の喜びこそ、彼を「永遠」への門に近づける第一歩だったとも言えるであろう。彼の愛を求むる心の態度は、それを一転機として飛躍的に深まっていった。彼は、それ以来、もう完全に一箇の自然児ではなくなったのである。そして、間もなく、母の死という悲しい運命によって、無限に尊いその愛が失われた時でさえも、彼は、その死を乗りこえて母の愛を信ずることが出来たのである。
 むろん、彼がこうした戦いを戦いぬく力は、彼自身の内部だけにあったとは言えない。もし、彼を里子として育ててくれた乳母のお浜の、ほとんど盲目的だとも思われるほどの芳醇《ほうじゅん》な愛や、彼の父俊亮の、聰明《そうめい》で、しかも素朴《そぼく》さを失わない奥深い愛が、いつも彼の背後から彼を支えていてくれなかったならば、そして、また、彼が物心づくころから、しばしば入りびたりになり、あとでは、生家の没落のために、ただ一人その家に預けられさえした正木一家――母の実家――ののびのびとした温い空気が、彼を包んでいてくれなかったならば、彼の求めてやまない魂も、あるいは何かの機会にひしゃげてしまっていたのかもしれない。人間は、全然食物のないところでは生きることが出来ず、全然光のない世界では物を見ることが出来ないと同様、全然愛のない世界では希望をつなぐことが出来ないものなのである。彼が、怒り、泣き、悲しみ、そして疑いつつも、ともかくも内なる生命の火をかきたてて生きる望みを失わなかったのは、そうした愛の支えがあったればこそである。そしてその点では、彼は恵まれすぎるほど恵まれた子供であったともいえるであろう。世には、もっときびしい運命のもとに育っている子供がざらにある。われわれは、あてのない隣人愛だけを唯一の支えにして生きなければならない子供が、ここかしこにうろついていることを忘れてはならないのだ。
 亡くなった母の遠い世界からの愛を信じ、それを清澄な暁の星のようにさえ感じていた次郎が、間もなく継母を迎えなければならなくなったときの惑乱《わくらん》、しかもその継母が、彼を愛するためにのみ迎えられると知った時の狼狽《ろうばい
前へ 次へ
全61ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
下村 湖人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング