って、意味はわからぬながらも、何か心強い気もした。同時に、それが「台なしになりそうだ」と言われたのが、新しい不安となって、彼の頭を困惑させたのである。
「私の言っていることがわかるかね。」
「わかりません。」
二人は、眼を見あったまま、ぽつんとそんな問答をとりかわした。そして、それからしばらくは、鶏のくっくっと鳴く声だけが聞えていた。
「君は、いま、狭い崖道を歩いているんだよ。」
次郎にとって、そんな言葉は、むろんもう少しも珍らしい言葉ではなかった。彼は、しかし、先生の語気や顔付にただならぬものを感じて、汗ばんだ額の下に、大きく眼を見張った。
「君は、これまで、永いあいだ苦労をして険《けわ》しい道をのぼって来たようだが、その道は、これからの踏み出しよう一つで、君をもつと高いところに導いてくれる道にもなるし、君を見る間に破滅させる道にもなるんだ。そして、その大事な踏み出しは、――」
と、朝倉先生は、しばらく考えてから、
「一口に言うと、信か不信かでそのよしあしがきまるんだ。わかるかね。」
次郎にはさっぱりわからなかった。彼は眼を地べたにおとして考えるふうだった。先生は、無理もない、という顔をして、
「信というのは、悪魔の足でも、洗ってやればそれだけきれいになる、と信ずることだ。その反対に、どうせ悪魔の足だ、きれいになるはずがない、と思うのが不信だ。君は、どうやらその不信の仲間入りをしようとしているようだが、そうではないかね。」
次郎は、やっと、先生の言っている意味がぼんやりながらわかったような気がした。そしてそういう意味でなら、自分が不信の仲間入りをしようとしていると言われても仕方がない、と思った。しかし、悪魔の泥だらけの足が、あまりにも大きく彼の前にのさばっているような気がして、それを洗わないからといって、自分が非難される道理がない、という気も同時にしたのである。彼は返事をしなかった。
朝倉先生は、彼の気持を見すかすように、
「むろん、世の中には無駄な努力ということもある。また、無駄な努力はしない方が賢明だ、というのもあながち間違いではない。しかし、人間の世の中をてんから疑ってかかって、何をするのも無駄だと考えるようになると、もうその人は崖をふみはずした人間だ。そして、そういう人間になるのも、もともとその人が卑怯だからだ。」
次郎は、またわけがわからなくなった。七つ八つのころから、自分の最も嫌いだった「卑怯」という言葉が、こんな場合にもあてはまるなどとは、彼の夢にも思っていなかったことなのである。彼は伏せていた眼をあげて先生を見た。
「卑怯というのは、言葉をかえて言うと、自信が足りない、ということだ。一滴の水にも一粒の砂を洗い落す力はあるんだから、それを信ずる人間なら、悪魔の足がどんなに汚れていようと、あとへは引かないはずだ。砂一粒でも落せば、それだけ悪魔の足がきれいになるはずだからね。」
次郎の頭には、その時、ふと、昨日天満宮のまえで人間の弱さということについて考え、何か眼に見えないものにへり下りたい気持になったことを思いおこした。そして、その気持と、今先生が言った自信という言葉との間に、何かそぐわないものを感じたが、それをどう言いあらわしていいかわからないままに、先生の言うことに耳を傾けていた。
「とにかく人間は絶望するのが一番悪い。料理屋のお内儀に相手にされなかったぐらいのことで、幻滅を感じるなんて、もってのほかだ。」
朝倉先生の言葉は、これまでになく烈《はげ》しかった。が、すぐ、もとの静かな調子にかえって、
「もっとも、君ぐらいの年頃では、真面目であればあるほど、そんな気持になりたがるものだ。私にも、そんな経験がある。だが、そこを切りぬけるのが、ほんとうの真面目さなんだよ。いつかも白鳥会でみんなに話したとおり、誠は積まなきゃならない。一滴の水の力を信じて、次から次に辛抱づよく一滴を傾ける。そしてそういう人が二人になり、三人になり、十人になり、百人になる。そこに人生の創造があるんだ。」
次郎は、「真面目であればあるほど、そんな気持になりたがるものだ。」と言った先生の言葉を、決して聞きのがしてはいなかった。それが「もっての外だ」と叱られたあとだけに、一層つよく彼の胸にひびいたのである。そして、そのせいか、そのあとの先生の言葉が、割合にすらすらと、胸に収まるような気がした。
「ミケランゼロという伊太利の彫刻家がね、――」
と、先生は、いくぶんゆったりした調子になって、
「ある日、友人と二人で散歩をしていた時に、路ばたの草っ原に大理石がころがっているのを見つけた。彼は、しばらくその黒ずんだ膚《はだ》を見つめていたが、急に友人をふりかえって、この石の中に女神が擒《とりこ》にされている、私はそれを救い出さなけ
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