もうとする、色の濃い、血液的な表現とは、かなりちがったものがあった。次郎にとっては、それは愛というよりは、何かもっと質のちがった、高貴なもののようにさえ感じられていたのである。かような種類の、身近にいてしかも高く遠いところから与えるといったような、迫らない、思慮ある愛こそ、次郎のように「考える」ことをはじめた少年にとっては、何よりも大切な愛だったのである。
大巻運平老の仙骨と、その息徹太郎の明敏で快活な性格も、また権田原先生に劣らず重要な役割を果していた。この二人は、共に、何か第一義的なものを心の底につかんでおり、しかも、二人の間柄は、親子というよりはむしろ友達といった方が適当なほど、愉快なものであった。気のまわることでは本能的でさえあった次郎が、継母の父であり弟であるこの二人に、何のこだわりもなく近づき得たのも、そうした二人の間柄が、おのずと彼にまで延長されていたからであろう。次郎は、二人に近づくことによって、愉快な空気を呼吸し、いつとはなしに、彼自身の生命を健康に保つ力を汲みとっていたのである。もっとも、二人の彼に対する愛は義理ある関係から生じたものであり、従って、最初はいくぶん作為されたものであった。しかし二人がつかんでいた第一義的なものは、その愛の表現を決してぎごちないものにはしなかったのである。
兄の恭一が次郎を支えていた力も、決して小さいものではなかった。恭一の胸には、青年期の初期にありがちな鋭い正義感が燃えていたが、それが彼の次郎に対する愛の表現を特異なものにした。青年や、青年期に近づいた少年の動揺する心を最も有效に支えうるのは、多くの場合、同年輩か、あるいは、あまり年齢のへだたりのない年長者の、こうした種類の愛である。次郎がその頃、乳母の愛とともに、彼にとって至上のものであった父の愛すら拒もうとしながら、兄との親しみを日ごとに深めていった秘密は、そこにあったのである。
幼年期から少年期の初期にかけては、たいていの人間は、よき親を恵まれることによって、自分の生命の健全さを保つことが出来るものである。だが、そろそろと青年期に近づくにしたがって、よき師と、よき兄弟と、よき友とは、時として、よき親以上に大切になって来るものだ。それは決して次郎の場合だけには限られないであろう。
次郎の危機は、おおかた一年近くもつづいた。しかし彼は、こうして、彼自身の内からの力と、周囲の人々の外からの力とによって、ともかくもそれを切り抜けることが出来た。そして間もなく待望の中学にはいることになったが、その第一日に上級生からうけた無法な暴行は、幼年時代から彼の心に芽ぐみつつあった正義感を一挙に目ざめさせた。同時に彼の関心の中心は家庭から学校に移り、小さいながらも、一つの「社会」が、彼の前にそろそろとその姿を現わしはじめたのである。
彼の正義感は、葉隠四誓願の一つであり、そのまま校訓の一つともなっていた「大慈悲」の精神と結びついて、彼をして、半ば無意識のうちに「愛せられる喜び」から「愛する喜び」へと、その求むる心を転ぜしめていた。そして、彼が、兄の親友で、「親爺」の綽名《あだな》で生徒間に敬愛されていた大沢と相識ることを得たことは、正義と慈悲への彼の歩みを、一層強健なものにしたのである。
そのうちに、彼は、ある日、はしなくも、卑劣な一上級生によって、忍びがたい侮辱を加えられ、ついに敢然《かんぜん》として立ちあがることになった。この時、彼は、彼の手に小さな兇器《きょうき》をさえ握っていた。そして、彼の唇からほとばしり出た正義と公憤の言葉は、卑劣な暴力においてはひけをとらないさすがのその上級生を、ぐいぐいと窮地に追いこんでいったのである。
この思いきった闘争のあとで、彼が朝倉先生の「澄んだ眼」を発見し、その唇をとおして「見事に死ぬことによって見事に生きる」大慈悲の道を聴き得たことは、彼がはじめて肉親の母の愛を感じた時にも劣らないほどの大きな感激であった。
彼は、あとで、この大きな感激の原因となったものを、つぎつぎにさかのぼって考えていったが、その直接の原因が、かの卑劣な上級生であったことに気がついて、因縁の不思議さに先ず驚いた。しかも、原因は無限につらなっていた。乳兄弟のお鶴、乳母、そうして亡くなった母、とそこまで考えていって、彼は、人間相互のつながりの深さと広さとに思いいたり、ついに、ある神秘的なものにさえふれていったのである。これが彼の宗教心の芽生えでなかったと、誰が言い得よう。
この時の彼の深い感激は、彼をして「愛せられる喜び」を求むる心から「愛する喜び」を求むる心への転向を、はっきりと彼自身の心に誓わせ、さらに、その誓いによって、父と、祖母と、継母と、兄と、乳母との前で、彼の過去を懺悔せしむるまでに、彼の心を清純にし、勇
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