田先生の眼に出会すと、彼はわざとのようにたずねた。
「もういいんですか。」
「朝倉先生がいいと言われたら、いいだろう。」
 小田先生の答は、どぎまぎしているようでもあり、くさっているようでもあった。次郎はそれをきくとすぐ、きちんと敬礼をして室を出たが、廊下を歩いて行く彼の胸の中には、勝ち誇った気持と、重い荷を負わされた気持とが交錯していた。
 彼の姿を見つけた組の生徒たちが、すぐ彼を取りまいて、くちぐちにいろいろのことをたずねた。しかし、真実のこもった声と、そうでない声とを聞きわけるに敏感な彼は、「大丈夫さ」と答えるだけで、何もくわしいことを言わなかった。ただ、新賀に対してだけは、あとで自分から近づいて行って、あらましの成行を話し、
「僕、どうしていいかわからなくなっちゃったよ。」
 と、いかにも思いあぐんだように言った。
 午後の授業には、ほとんど身が入らなかった。いっそ今日のうちに眼をつぶって宝鏡先生にあやまってしまうか、とも考えてみたが、それには先ず、小田先生に対する気持からして清算してかからなければならなかった。それに、「心にもないことはやるな」と朝倉先生に言われたことが、戒めとしてというよりは、むしろ気休めとして彼の心に仂いていた。彼は、とうとう授業が終るまでに決心しかねて、帰り支度をしていた。すると新賀が彼の肩をたたいて言った。
「今日、帰りに君のうちに寄ってもいいかい。」
 次郎は喜んで彼といっしょに校門を出た。

    六 迷宮

 次郎は、歩きながら、二人の先生との対談の様子を、あらためてくわしく新賀に話した。話しているうちに、小田先生のあいまいな態度に対する不満の言葉も、自然、幾度となく彼の唇を洩《も》れた。しかし、今は、そうした不満をならべるのが彼の目的ではなかった。彼には、もう、どの先生に対しても、朝倉先生の心に背いてまで反抗的な態度に出る気持は残っていなかった。宝鏡先生に対してこれからどうすればいいか、ということについても、いつの間にか決心がつきかけていたのである。ただ、心の底には、まだ何といっても、いくらかの無念さが残っていた。それに彼くらいの年頃では恐らく誰しもそうだと思うが、そした殊勝な決意をすることが友達に対して何となく気恥かしく感じられるのだった。で、彼は、表面、どうしていいかわからない、といった顔をして、それとなく、朝倉先生の
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