ではなかった。彼は依然として先生を見つめたまま沈默を守っている。
「じゃあ、私はもう知らんぞ。生徒監室に引渡すが、それでいいのか。」
 先生は、早くもその取っときの奥の手を出すことを余儀なくされた。次郎は、それで、やっと口をきくにはきいたが、その答えは、先生の予期に反して、あまりにも簡単明瞭だった。
「いいです。」
 これは、しかし、彼のやけくそから出た青葉でもなく、さればといって、朝倉先生に一刻も早く会いたいための言葉でもなかった。彼は、実際、生徒監室がどんなところか、そしてそこにはどんな先生がいるのか、上級生たちが知っているほど、くわしく知っていたわけではなかったのである。ただ、彼は、彼にとって全く無意味だとしか思われない言葉を、いつまでも聴《き》いているのがばかばかしかった。で、与えられた機会を無造作につかんで、対談をぶち切ってしまったまでのことで、それが相手にとってどんな迷惑になるかは、むろん、彼の知るところではなかったのである。
「生徒監に引き渡した以上、学級主任としては、あとがどうなっても知らんぞ。それでいいのかね。」
 小田先生は、未練らしく、もう一度駄目を押した。
「いいです。」
 次郎の答えは、あくまで簡単で、はっきりしていた。こうなっては、小田先生もいよいよ立ち上らざるを得なかったらしく、
「しばらく、ここで待っているんだ。」
 と、捨ぜりふのように言って、隣室に消えた。
 次郎は、一人になると、さすがに変な気重さを感じた。彼は、それをまぎらすように、室内を見まわしたが、正面に額が一つかかっているきりで、ほかには何の飾りもなかった。額には「思無邪」とあった。次郎は、しかし、それをどう読んでいいのかわからなかった。無邪気という言葉と何か関係があるんだろう、と思ったきり、それ以上考えてみようともしなかった。
 隣室からは、おりおり笑い声がきこえた。次郎は、最初のうち、その笑い声をきくと腹が立った。しかし、何度もきいているうちに、その声に聴き覚えがあるような気がして、じっと耳をすました。
(そうだ、朝倉先生の声だ。)
 彼は、そう思うと、朝倉先生が生徒監の一人であり、自分に話すことがある、と言われたのもそのためだったということが、はっきり意識されて来たのである。
 彼は、もう、隣室とのあいだの戸がひらくのが、待遠しくてならなくなった。
 しかし、戸は容
前へ 次へ
全122ページ中32ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
下村 湖人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング