った。次郎は、「あの何じゃ」がまた出なければいいが、と心配になって来た。で、それまで先生の白墨について動かしていた視線をそらし、最初からの一行一行を念入りに見直した。すると三行目から四行目にうつるところで、マイナスとあるべき符号《ふごう》が、プラスになっているのを発見したのである。彼は、自分の思いちがいではないかと、二度ほど見直したが、やはりそうにちがいなかった。
「先生!」
 と、彼は、我知らず叫んだ。先生はもうその時には、右の黒板に二行ほど書き進んでいたところだったが、次郎の声で、びくっとしたようにふり向きながら、
「何じゃ、質問か。質問なら、あとでせい。」
「質問じゃありません。あすこに符号が間違っています。」
 次郎は、先生を安心させるつもりでそう答えた。
「何? 間違っている? どこが間違ってるんじゃ。」
 先生のふだんのあから顔は、もうその時までにいくぶん蒼《あお》ざめかかっていたが、それで一層蒼くなった。掌は例によって腰の両側に蛙のように拡がっていた。
「三行目から四行目にうつるところです。」
 先生の眼は、犯人の眼のように、三行目と四行目との間を往復した。そしてその時には、もう方々からくすくすと笑い声が聞え出していたのである。
 先生は、大急ぎで黒板を消した。しかし、今度は、
「もう一度、はじめからやってみせるんじゃ。」
 とは言わなかった。その代りに、――それは生徒たちの全く予期しなかったことだったが――いきなり教壇をおりてつかつかと次郎の席に近づいて来た。次郎の席は、廊下に近い方から二列目の一番まえだったのである。
 次郎の席のまえに立った先生は、精いっぱいの落着きと威厳とをもって言った。
「お前は教室を騒がすけしからん生徒じゃ。」
 次郎には何のことだかわからなかった。彼は驚きと怪しみとで、眼をまんまるにして先生の顔を仰いだ。
「教室を騒がす生徒は、教室に置くわけにはいかん。出て行くんじゃ。」
 先生は、そう言って、むずと次郎の右腕をつかんだ。
「僕が、どうして教室を騒がしたんです。わけを言って下さい。」
 次郎は、このごろにない烈しい声で叫んだ。同時に、彼の左の腕は、しっかりと机の脚に巻きついた。
「先生の命令に背くんじゃな。」
 先生は、ぐっと次郎を睨《にら》みつけ、それから教室全体を一わたり見まわした。
「僕、わけがわかんないです。わけを
前へ 次へ
全122ページ中25ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
下村 湖人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング