た。彼にとっては、父が彼といっしょに帰らなかったのは、不正と妥協するためだ、とよりほかには考えられなかったのである。
「世の中は、右でなければ、すぐ左というものではないからな。」
 父が最後に言ったそんな言葉が、その時彼には思い出されていた。
(幻滅だ、何もかも幻滅だ。)
 彼は家に帰りつくと、すぐ二階の自分の机のまえにひっくりかえって、心の中で、何度もそうくりかえした。そして、昨日天神の杜の樟《くす》の洞穴の中であれほど苦しんだ自分が、みじめにも腹立たしくも感じられた。この感じは、やがて彼を過去へとさそいこみ、彼自身の永い間の努力の味気なさを感ぜしめた。
 いつの間にか、彼の眼には、春月亭のお内儀といっしょに、お祖母さんの顔がうかんでいた。そして、その二つの顔をとおして、彼は誠実のとおらない「実社会」の姿を、いよいよはっきり見るような気がしたのである。
(白鳥会が何だ。どうせ人間の誠実なんて、泡みたようなものではないか。)
 彼は、しまいには、そんな考えにさえなって行くのだった。しかし、彼は、その考えだけは急いで打消した。というのは、その考えの奥から、朝倉先生の深く澄んだ眼が、誠実そのもののように彼をのぞいていたからである。
 彼は、ふみこんではならない神聖な祭壇に土足をかけたような気がして、われ知らずはね起き、きちんと机の前に坐った。と、ちょうどその時、俊亮が帰って来たらしく、すぐ下の店で仙吉と何か話すのがきこえて来た。次郎は耳をそばだてた。
「へえ、そうですか。私なら、せいぜい半金ぐらいでぶちきって来ましたのに。」
「そうも行くまい。どうせあの酒は役に立つまいからね。」
「しかし、向こうじゃ、煮物のさし酒ぐらいには役に立てるでしょうよ。」
「そりゃそうかも知れんが、そこまでこまかく考えんでもいいさ。」
「じゃあ、こちらに引きとったらどうでしょう。」
「引きとるって、あの酒をかい。」
「ええ。」
「引きとってどうする。」
「どうするってこともありませんが……」
「こちらで捨てるぐらいなら、向こうで役に立ててもらった方がいいよ。」
「でも、それじゃあ癪《しゃく》ですねえ。」
「ふっふっふっ、そんなけちな腹は立てん方がいい。次郎に、世の中にはあんな人間もいるっていうことを教えてもらったと思やあ、ありがたいくらいなもんだよ。」
 次郎は、はっとしたように、首をもたげた
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