次郎は、それを読んだ瞬間、これまであまり気にもとめないでいた一つの出来事を思い出して、異様な不安に襲われた。それは、開店以来店に坐っていた番頭の肥田が、恭一が熊本にたつ間際に、売掛代金や何かをさらって、急に姿を消してしまったことである。
 肥田は、俊亮が村にいたころ、青木医師についで親しくしていた人の末弟にあたる人だが、生来しまりのない男で、方々でしくじったあげく、俊亮の店開きのことを聞きこんで泣きついて来たのを、俊亮が例の侠気《きょうき》と大まかさから、店に使ってやることにしたのだった。そうした事情はいつの間にか次郎にもわかっていたし、それに、肥田が姿を消した時のお祖母さんの騒ぎようはずいぶんひどかったにも拘らず、俊亮自身は割合《わりあい》落ちついており、肥田の兄にそのことを知らしてやったきり、強いて本人の行方を捜そうともしなかったので、彼は、それをさほどの大事件とも思わず、肥田がいなくなって、父はかえって安心したのだろう、ぐらいにしか考えていなかったのである。
 彼は、しかし、恭一の手紙で、新たにそのことを思い出し、なお、その後の店の様子などを考えているうちに、このごろ、麦洒《ビール》や日本酒の罎詰をならべた商品棚ががらんとなって来たことや、夕方の忙しくなければならない時間に、二人の小僧たちがぼんやり腰をおろしている様子などが眼に浮かんで来て、不安はいよいよつのって行くはかりだった。
 で、彼は、その後、毎日学校の行きかえりに、店の様子にとくべつ注意を払うようになった。すると、気のせいか、さびれは日にまし目立ち、掃除までが行きとどいていないような気がするのだった。ただ、いつもと変らないのは、土間につみあげてある七八本の四斗樽だったが、それも、ある日彼が学校の帰りがけに小僧たちと冗談を言いながら、それとなく指先でたたいてみると、どれもこれも空ばかりのようだった。
 彼は、思いきって父に恭一の手紙を見せ、事情をたずねてみようかと考えた。しかし子供のくせにさし出がましいと思われそうな気もし、また、たずねたためにかえって父にいやな思いをさせそうにも思えたので、つい言い出しそびれてしまった。そして、恭一には、それから五六日もたってから、自分の見たままのことを書いて、一先ず返事を出しておいたのである。
 そうこうするうちに、一学期も押しつまり、試験の準備に時間をとられ
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