これは、しかし、いやなことをつとめて避けようとする彼の心づかいからではなかった。お浜へあてた手紙を書き出すと、彼は、ちょうど甘い果物にでもしゃぶりついているような気になって、自然、不愉快なことを書く気がしなかったのである。
むろん、墓詣りをしたおりの彼の手紙には、母の追憶やら、墓場の光景やら、それに伴う彼自身の感傷やらが、かならず何行かは書きこまれてあった。しかも、時としては、彼はそのために誇張としか思えないような文句まで考え出すのだった。これは、しかし、彼の母への思慕の不純さを示すものだとはいえなかった。彼は、まだ、思いきりお浜に甘えてみたい気持だったのである。母への思慕を濃厚に表わすことが、今では、お浜への思慕を濃厚に表わすことであり、彼はそうすることによってのみ、存分にお浜に甘えているような気持になることが出来たのである。
次郎にとって、何の自制心も警戒心も必要としないただ一人の相手、嘘であろうと、誇張であろうと、そのままにうけ入れてくれるただ一人の相手、そして、かりに腹をたてあうとしても、腹を立てあうそのことが、愛のしるしでさえあるようなただ一人の相手、それは今でも、お浜だけであるということを、読者はやはり忘れてはならない。
ところで、次郎は不思議にも、お浜自身に対する彼の思慕を、彼の手紙のなかに、あからさまに書いたことなど、一度だってなかった。彼は、お浜自身に関しては、いつも手紙の末には、「乳母や、では、たっしゃでお暮しなさい。」と書くだけだった。そのほかに、もし彼のお浜に対する深い愛情を示す直接の言葉を求めるとすれば、恐らく、母の葬式後別れてからの最初の手紙に、「僕が大きくなるまで丈夫にしていて下さい。」と書いたのだけであったろう。これもしかし、何も不思議なことではなかった。というのは、次郎のお浜に対する思慕は、次郎にとってはあまりにも自然であり、それを意識的に言い表わす必要など、彼は少しも感じていなかったからである。
お浜からの返事は、いつも簡単だった。たいていは郵便葉書に、まず手紙を受取ったお礼を書き、そのあとに、勉強して一番になってもらいたいとか、おとなしくせよとか、病気をするなとか、お墓詣りを怠るなとか、いったような意味のことを、きまり文句でしるしてあるに過ぎなかった。たまには、まるで返事さえ来ないこともあった。次郎は、それを物足りなく感じながらも、少しも不服には思わなかった。というのは、彼は、お浜が字が書けなくて、いつも誰かに代筆させていることをよく知っていたからである。
もっとも彼は、その代筆者を多分お鶴だろうと想像していた。そしてもしそうだとすると、もっと何とか書きようがありそうなものだ、お鶴はもう僕のことを忘れてしまっているのだろうか、などと考えたりした。
彼は、母を思うとすぐお浜を思い出し、お浜を思うときっと母を思い起した。彼が二人からうけた印象は、色も匂いもまるでちがったものではあったが、それは彼にとって、決して調和しがたいものではなかった。それどころか、彼は、いわば、高く澄みきった暁の星を、咲きさかる紫雲英《れんげ》畑の中からでも仰ぐような気持で、二人の思い出にひたることが出来たのである。暁の星と紫雲英畑とは、もはや彼にとって同時に必要なものになっていた。暁の星だけでは、清澄に過ぎて寂しかったし、紫雲英畑だけでは、何か知ら心の奥に物足りなさが感じられた。彼は、この二つを同時に持つことによって、緊張感《きんちょうかん》と幸福感とを共に味わいつつ、無意識のうちに、彼自身の魂を、永遠と現実との二本の軌道のうえに正しく転じはじめていたのである。
むろん、彼の周囲には正木一家のひとびとがいて、あたたかく彼を見まもってくれた。正木のお祖父さんは、やはり懐しくも怖くも思われる人だった。お祖母さんは母の死後いよいよやさしくなってきた。墓詣りのたびごとに、母の思い出を語り、ついでにお浜のことを言い出して、次郎を慰めるのは、いつもこのお祖母さんだった。次郎は、しかし、母の死後、この二人が目立って元気がなくなったように見えて、何となく淋しかった。
謙蔵夫婦や、従兄弟《いとこ》たちには、べつに変ったところもなかった。どちらかと言うと、次郎自身が彼らに対して不必要に気をつかったり、小細工をしたりしなくなっただけに、彼らの次郎に対する態度にも、一層こだわりがなくなって来たと言えたであろう。
ともかくも、こうして、次郎は正木一家のひとびとに取りかこまれ、しばしば、お浜に手紙を書き、自由に母の追憶にふけっているかぎり、大して不幸な生活をおくっているとは言えなかったのである。
もっとも、竜一の姉の春子が、いよいよ正式に縁づくことになり、母の死後間もなく、東京に発《た》って行ってしまったと聞いた時には、腹も立
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