来れんからな。」
次郎は、そう言われて、思わずじっと父の顔を見つめた。そして、
「ううん、絵はがきだけで、いいんです。」
と、十枚ほどの絵はがきを買うと、自分から先に立って書店を出た。何か、父の愛にあまえたくない気持だったのである。
書店を出て半丁ほど行ったころ、俊亮がふとたずねた。
「次郎は財布をもっているのか。」
「ううん。」
「じゃあ、一つ買ってあげよう。」
「僕、財布なんかいりません。」
「でも、もう中学生だから、買いたいものがすぐ自分で買えるように、いくらか小遣《こづかい》を持ってる方がいいんだ。」
次郎は答えないで、自分の足先ばかり見て歩いた。
小間物屋のまえに来ると、俊亮は默ってその中にはいった。次郎がその小さな飾窓《かざりまど》のまえに立って待っていると、俊亮は間もなく、小さな蟇口《がまぐち》を、ぱちんと音をさせながら出て来た。そして、それを次郎に渡しながら、
「一円ほど入れといたよ。なくなったら母さんにそう言えばいい。まあ、しかし、小遣は月二円ぐらいで我慢するんだな。」
二円という金は、次郎にとってはむろんすくない金ではなかった。それが、これから毎月自分で勝手につかえるんだと思うと、うれしいというよりは、何かそぐわない気持だった。だが、同時に彼の心にひっかかったのは、「なくなったら母さんにそう言えばいい」と言った父の言葉だった。父は何でもなくそう言ったらしく思えた。しかし、また、それを言うために、わざわざ蟇口を買ってくれたのではないか、とも疑えたのである。
家に帰ると、彼は一人で自分の机のまわりを整頓しはじめた。新しい教科書を本立にならべた気持は、決してわるいものではなかった。中には金文字のはいったものも二三冊あり、それがとりわけ彼の眼に新しく映った。恭一はもう今年は四年で、その本立には、分厚な字引類や参考書などが沢山ならんでいた。それに比べると自分の本立はいかにも物淋しかったが、それでも、新しい世界に足をふみ入れた、という気持を彼に起させるには十分だった。
彼は、いつの間にか蟇口のことを忘れていた。
ひととおり整頓を終ると、彼は、さっき買って来た絵はがきをとり出して、それに入学試験合格の通知を書きはじめた。先ず正木、大巻、権田原先生、竜一という順序に書いていった。源次も竜一も、幸いに、合格していたので、思うことが気楽に書けた。権田原先生は、わざわざ成績発表を見に来ていたので、あらためて通知を出さなくてもよかったはずだったが、何か書かないではいられない気持だったのである。
竜一宛のを書き終ったあと、彼はかなり永いこと頬杖をついて考えた。それから、ざら半紙を二枚、紙挟みからとり出して、それに鉛筆で、考え考え何か書いていった。書いていくうちにそれはだんだん長くなって、とうとう紙一ぱいになってしまった。彼は何度もそれを読みかえし、消したり、書き加えたりしたあと、今度は作文用紙に、ペンで念入りにそれを清書した。
それはお浜宛の手紙だった。文句にはこうあった。
「ばあや、おたっしゃですか。もう大かた一年も手紙を出さないで、ほんとうにすまなかったと思います。きっと心配していたでしょう。しかし、これにはわけがありました。僕は昨年、中学校の入学試験にしくじったので、どうしてもばあやに手紙を出す元気が出なかったのです。しかし、安心して下さい。今年はいよいよ僕も中学生になりました。今日それがわかったのです。だから、これからは、ばあやにも時々手紙を書くことにします。
中学校に一年おくれたのは残念でなりませんが、その代り、僕はこの一年のうちに、ほんとうに偉くなるにはどうすればよいか、といつもそれを考えました。これは僕には非常にためになったと思います。僕はこれまで、人に可愛がられたいとばかり思っていましたが、それはまちがいだったということがわかりました。それで、僕はもうどんなことがあっても、腹を立てたり悲しんだりはしないつもりです。
僕は、これから、ほんとうに正しい人間になりたいと思います。勇気のある人間になりたいと思います。そして、誰にも可愛がられなくても、独りで立っていける人間になりたいと思います。中学校にはいってからも、そのつもりで勉強していく決心です。
けれども、僕はばあやだけにはいつまでも可愛がってもらいたいと思います。ばあやはいつも僕のそばにはいないのだから、どんなにばあやに可愛がってもらっても、僕はちっとも弱くはならないと思うのです。
ではごきげんよう、さようなら。」
お浜宛の手紙を書き終ったあと、彼は春子にも、せめて絵はがきででも、中学校に入学したことを知らしてやりたいと思った。しかし、彼女の東京の住所を書いたのを、もうなくしてしまっていたので、今度竜一にあって、それをたしかめてから書く
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