恭一が涙声で言った。
「うん。」
次郎はふとんの奥からかすかに答えた。答えると同時に、彼の眼からは、とめどもなく涙がこぼれ出した。彼が、やっとほんとうに眠ったのは、恐らく二時にも近いころであったろう。
八 蟻にさされた芋虫
翌日、次郎は、枕時計がまだ鳴らないうちに眼をさましてしまった。
彼は、かなり眠ったような気もし、またまるで眠らなかったような気もした。頭のなかには、水気のない海綿《かいめん》がいっぱいにつまっているようだったが、それでいて、どこかに砂のようにざくざくするものが感じられた。
部屋はまだ暗かった。枕時計を手さぐりして、それを自分の方に引きよせていると、恭一が声をかけた。
「もう眼がさめちゃったの? 僕、七時過ぎてから起きても大丈夫だと思って、めざましのベル、とめといたんだがなあ。……今日は九時からだろう。」
「うん。もっと寝ててもいいね。」
次郎は、そう言いながら、枕時計の表字板に眼を据えたが、暗くてはっきりしなかった。
(恭ちゃんは、まるで眠らなかったんじゃないかなあ。)
彼は、蒲団の襟に顔をうずめて、そんなことを考えていたが、つい、またうとうととなった。が、ほとんど眠ったような気がしないうちに、
「次郎ちゃん、もう七時半だぜ。起きろよ。」
と言う恭一の声を、耳元できいた。
眼をあけると、もう洗面をすましたらしい恭一の顔が、すぐ自分の顔の上にあった。
彼は、はね起きた。敷蒲団の上で重心をとりそこねて、ちょっと、よろけかかったが、そのまま泳ぐように壁ぎわに行って、そこにかけてあった学校服を着た。
「すぐ顔を洗っておいでよ、床は僕があげとくから。」
次郎は、言われるままに急いで階下におりた。そして洗面をすまして、梯子段のところまで来ると、恭一がもう次郎の筆入と帽子とをもっておりて来ていた。筆入には、鉛筆、小刀、メートル尺、消しゴムなど、試験場に入用なものが全部入れてあったのである。
二人は、すぐ台所に行って、ちゃぶ台のまえに坐った。飯を食べながら、昨夜来はじめてしみじみとおたがいの顔を見あったが、どちらも相手の顔色がいつものようでないのに気づき、ともすると眼をそらしたがるのだった。
お祖母さんが仏間の方から出て来て、ちゃぶ台につきながら、じろりと次郎を見た。しかし何とも言わなかった。きのうの朝は、恭一が次郎のために生卵《なまたまご》をねだったりしたが、きょうは誰もそんなことを思い出すものさえなかった。
お祖母さんは、それからも、じっと坐って二人の顔を見くらべていたが、
「恭一、お前、顔色がよくないようだよ。今日は次郎について行くの、よしたらどうだえ。」
そして、わざとのように、恭一の額に手をあてて、
「少し、熱があるんじゃないのかい。」
恭一は、その神経質な眼をぴかりとお祖母さんの方に向けた。が、すぐうつむいて、
「ううん、どうもないんです。」
と、首を強く横にふった。お祖母さんもそれっきり默ってしまった。
茶の間で新聞を見ていた俊亮が、ちょっと台所の方をのぞいて、何か言いそうにしたが、思いかえしたように眼を天井にそらして、ふっと大きな吐息をした。
「次郎ちゃん、便所すました? まだ時間はゆっくりだぜ。」
恭一は、食事をすまして立って行こうとする次郎に言った。
「ううん、大丈夫。」
二人が家を出たのは、八時を十二三分ほど過ぎたころだった。中学校までは二十分とはかからなかったが、途中、西福寺によって、合宿の連中といっしょに行く約束になっていたのである。西福寺までは七八分だった。
「頭がいたいことない?」
恭一が家を出るとすぐたずねた。
「ううん、何ともないよ。」
次郎はわざと元気らしく答えたが、やはり耳鳴がして、頭のしんがいやに重かった。
西福寺の門をくぐると、もうみんなは本堂の前に出そろって、わいわいさわいでいた。権田原先生も、間もなく庫裡《くり》の方から出て来たが、次郎を見ると、
「どうしたい? 眼が少し赤いようじゃないか。」
それから、恭一を見、また次郎を見て、何度も二人を見くらべていたが、
「二人で夜ふかしをしたんだろう。駄目だなあ、そんなことをしちゃあ。」
二人は默って顔をふせた。
「ゆうべ、何時に寝たんだい。」
「九時少しまえです。」
次郎がすぐ顔をあげて答えた。
「九時まえ? そうか。じゃあ、みんなよりも早く寝たわけなんだね。……ふうむ。……」
先生はけげんそうな顔をして、またしばらく二人の顔を見くらべていたが、間もなく外套《がいとう》のかくしから、黒い紐のついた大きなニッケルの時計を出して、時刻を見た。そして、
「みんな便所はすましたかね、大便は?……じゃ行くぞ。」
みんなは元気よく門を出た。次郎もそのなかにまじったが、妙にしょんぼ
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