持に同情してくれているのが、妙に嬉しかった。
「それに――」
 と、お延は、次郎の手をなでながら、
「もし次郎ちゃんが、嘘でもいいから、今日から思いきってお母さんと呼んであげたら、どんなにお喜びでしょう。あの方はね、そりゃお気の毒な方よ、ちょうど次郎ちゃんと俊ちゃんぐらいな男のお子さんがお二人あったんだけれど、お二人とも、お亡くなりになってしまったんだってさ。だから、誰かにお母さんて呼ばれてみたいのよ。」
 次郎は、はっとしたように、伏せていた眼をあげて、お延を見た。
「だのに、次郎ちゃんが寄りつきもしないようだと、どんなにあの方、がっかりなさるでしょう。……それにね、次郎ちゃん、あの方はもう正木の人になっておしまいになったんだよ。お祖父さんと、お祖母さんとでね、亡くなったお母さんの代りをしていただく方なんだから、そうしてもらった方がいいっておっしゃってね。わからない? わかるでしょう。」
 次郎はうなずいた。
「だから、もしかして、あの方が次郎ちゃんとこに行けなくなったら、そりゃ大変なことになるのよ。だいいち、あの方どこにどうしていていいか、わからなくなっておしまいになるわ。せっかく、次郎ちゃんのために来てくださろうとおっしゃっているのに、お気の毒じゃないの? お祖父さんや、お祖母さんだって、もしかそんなことにでもなったら、どんなにおこまりでしょう。」
 次郎は、もう、世間というものがまるでわからない子供ではなかった。むしろ、そうしたことでは、兄弟や従兄弟たちの誰よりも、ませているともいえるのだった。それに、彼の持ちまえの侠気《きょうき》というか、功名心というか、そうしたものが、彼自身でも気づかない間に、そろそろと頭をもたげていた。
「僕、じゃあ、母さんって言うよ。」
 彼はいかにも無雑作《むぞうさ》に答えた。しかし、答えてしまって妙な味気《あじけ》なさを覚えた。それはちょうど精いっぱい力を入れて角力をとっている最中、何かのはずみで、がくりと膝をついたような気持だった。
 お延には、次郎の返事があまりにだしぬけだった。彼女は、もっと何か言うつもりでいたらしかったが、一瞬、あっけにとられたように眼を見はった。それから膝をのり出し、次郎の顔を下からのぞくようにして、
「そう? ほんとう?」
 と、念を押した。
 次郎は念を押されると、何だかあともどりしたくなって来た。
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