次郎は、しぶしぶ膝をにじらせて敷居の内側にはいった。そしてもう一度お辞儀をしたが、それをすますと、急いで立って行こうとした。
「ここにいてもいいんだよ。お客様ではないのだから。……もっと火鉢のそばにおより。」
 お祖母さんは、そう言って立ち上り、自分で次郎のうしろの襖をしめた。次郎は監禁《かんきん》でもされたかのように、窮屈《きゅうくつ》そうに坐っていた。
「どうしたのだえ、次郎。お客様ではないと言ってるのに。……この方はね……」
 と、お祖母さんは、もとの座にかえりながら、
「この方は、これからうちの人になっていただくんだから、そんなに窮屈にしないでもいいのだよ。そばによってお菓子でもおねだり。」
 すると女の人がはじめて口をきいた。
「次郎ちゃん、こちらにいらっしゃい。お菓子あげますわ。」
 何だか張りのない声だった。彼女は、そう言いながら、お菓子鉢から丸芳露《まるぼうろ》を一つ箸にはさんで次郎の方に差し出した。
 次郎は、しかし、手を出さなかった。
「おきらい?」
 次郎は、伏せていた眼をあげて、ちらと相手の顔を見た。相手は笑っていた。右頬の笑くぼがこないだ見た時よりも、一層大きく見える。ふっくらした頬の形は、どこかに春子を思わせるものがあった。しかし吸いつけられるような感じには、ちっともなれなかった。
「おいただきなさいよ。」
 お祖母さんがうながした。それでも次郎は手を出そうとしない。女の人は箸にはさんだ丸芳露を、ちょっともちあつかっている。
「まあ、ほんとにどうしたというんだね。いつもはお菓子に眼がないくせに。……くださるものは、すなおにいただくものですよ。」
 次郎は、お祖母さんにそう言われると、だしぬけに手をつき出して、丸芳露を受取ったが、いかにも厄介な預り物でもしたように、すぐそれを膝の上においた。
「はじめて、お目にかかるものですから、きまりが悪いのですよ。」
 と、お祖母さんは取りなすように言って、
「次郎、おたべよ、……お芳さんもひとついかが。次郎が一人ではきまりが悪そうだから、あたしたちもお相伴《しょうばん》いたしましょうよ。」
「ええ、いただきますわ。」
 二人は次郎の様子に注意しながら、丸芳露をたべだした。次郎は、しかし、食べようとしない。
 彼は「お芳さん」という女の名を何度も心の中でくりかえした。そして、さっきお祖母さんが、
「こ
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