と思うんだけど、仕方がないさ。」
 次郎はあらためて自分の蟇口を見た。そして、その蟇口をとおして、父と母と祖母との心を、また自分自身のこれからの生活の一部を、はっきり見ることが出来たような気がした。

    一四 ふみにじられた帽子

 次郎が、中学校入学式で講堂にはいった時、まず第一に眼についたのは、正面右側に掲げてある、すばらしく大きな額だった。それには「進徳修業」の四字が、まるで箒の先ででも書いたように、乱暴にならんでいた。次郎は、ただその大きさと乱暴さとに驚いただけで、ちっともいい字だとは思わなかった。
(どうして、こんな乱暴な字を額になんかしてあるんだろう。)
 彼は、そう思って、すぐ眼を左の方に転じた。
 左正面にも、同じ大きさの額がかかっていた。しかし、それには、平仮名まじりの文章が四箇条ほど箇条書きにしてあったので、さほど大きくは見えなかった。字もていねいだった。書体は少しくずしてあったが、次郎にも読めないほどではなかった。彼は、他の新入生たちが何かこそこそ囁きあっているひまに、念入りにそれを読んでみた。文句は次のとおりであった。
一、武士道に於ておくれ取り申すまじき事
一、主君の御用に立つべき事
一、親に孝行仕るべき事
一、大慈悲をおこし人の為になるべき事
 次郎は、武士道という言葉の意味を、はっきりとは知っていなかった。しかし、第一条はよくわかるような気がした。第二条と第三条とは、これまで修身の時間で十分教わって来たことだし、べつに珍しいとも思わなかった。親孝行のことを、自分の境遇にあてはめて考えてみようという気にも、まるでならなかった。ただ、この二箇条をなぜはじめの方に書いてないのだろう、と、それがちょっと不思議に思えた。
 第四条の「慈悲」という言葉が、妙に彼の心をとらえた。彼はその言葉の意味を「武士道」という言葉の意味以上に知っていたわけではなかったが、その字を見た瞬間、すぐ正木のお祖母さんのことを思い起したのだった。
「慈悲深い方だ。」――「仏様のような方だ。」
 これが正木のお祖母さんの噂をする時に、村人たちがいつも使う言葉だったのである。
 次郎は、何度も大慈悲の一条をよみかえした。そして、正木のお祖母さんが、自分や、家庭の者や、村人たちに対して、言ったりしていたことを、いろいろと回想してみた。そのうちに、彼は、嬉しいとも淋しいとも
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