という段になって彼は当惑《とうわく》した。あまり手を使いすぎると、眼をさましていることが発覚しそうである。彼は先ず頭の方から這入る計画を立てた。しかし、何度転んでみても、いつも頭が蚊帳の裾に乗っかって、うまくいかない。で、今度は足の方から這入ることにした。これも容易には成功しなかったが、それでも頭ほどに不便ではなかった。それは、下駄を穿《は》く時の要領《ようりょう》で、うまく足指を使うことが出来たからである。
 こうして、ともかくも、彼は腰の辺まで蚊帳の中に這入ることが出来た。蚊の襲撃《しゅうげき》から完全に遁《のが》れるためには、あとわずかな努力が残されているのみであった。彼はその努力の機会をねらって、一息入れながら、かすかに眼を開いて母の様子をうかがった。
 すると、どうだろう、蚊帳の内側では、母がきちんと坐って、眼を皿のようにして自分の方を見つめているではないか。
 次郎はもうこれ以上身動きしてはならないと思った。
 実は母に覗かれているという意識があったればこそ、こんな手も使ったのであるが、こうまともに見られているのだとは、夢にも思わなかったのである。
 しかし、その間にも、蚊は容赦なく彼の上半身を襲って、彼の忍耐力に挑戦した。彼はそのたびに思わず芋虫のように体を左右にまげた。そして最後にとうとう両手を使って、一挙に蚊帳の裾を頭の方に引っぱってしまった。
「次郎や。」
 この時、気味わるく落ちついた母の声が、彼の耳をうった。
「お前、誰にそんな芸当を教わったの。」
 次郎は返事をする代りに、軽い鼾をしてみせた。
「次郎ったら。」
 母の声は急に鋭くなった。次郎はびくっとしたが、今更どうすることも出来なかった。すると次の瞬間には、お民の指が彼の耳朶をつかんで、再び彼を蚊帳の外に引きずった。
 次郎は、かつて直吉の耳朶に、全身の重みを託そうとしたことがあった。しかし、自分自身の耳朶に自分の体を託した経験は、全くはじめてである。彼は思わず悲鳴をあげた。両手は思わず母の手を握った。それで耳朶の痛みはいくらか減じたが、その代りらくらくと蚊帳のそとに引きずり出されてしまったのである。
「そこに夜どおしで、そうしているんだよ。」
 母はあらあらしい息づかいをしながら、寝床に這入った。
 次郎の眼からは、ぼろぼろと涙がこぼれた。しかし彼は喉《のど》にこみあげてくる泣き声を、じっと噛み殺した。そして、とうとう夜があけるまで、蚊にさされなから、蚊帳の外を芋虫のようにころげまわっていた。

    六 飯びつ

「ご飯だよ。」
 翌朝次郎が、ぽつねんと人気《ひとけ》のない座敷の縁に腰をかけて、庭石を見つめていた時に、台所の方から母の声がきこえた。しかし、彼は動かなかった。それは、その声が彼を呼んでいるようには聞えなかったし、かりに彼を呼んでいるとしても、そんな遠方からの呼び声に応じて出て行くのが変に思えたからである。
 やがて、家じゅうの者が茶の間に集まったらしく、話し声が賑やかになり、茶碗《ちゃわん》のふれる音や、鍋をかする音などが聞えて来た。
 次郎は、誰かが気づいて自分を呼びに来るのを、心待ちに待っていた。しかし、呼びに来ても、飛びついて行くようなふうは見せたくない、と思っていた。
 ところが、十分経っても、二十分経っても、誰も彼を呼びには来なかった。そして、そのうちに、恭一と俊三とは、すでに飯をすましたらしく、口端を手でこすりながら彼の方に走って来た。
「ご飯どうして食べない。」
 恭一は次郎のそばまで来るとたずねた。次郎は庭の方を見たきり、振り向こうともしなかった。
「ご飯たべない、ばかあ――」
 俊三の声である。次郎はそれでも默っていた。すると俊三は、ちょこちょこと寄って来て、うしろから片手を次郎の肩にかけ、その耳元で、
「馬鹿やあい。」
 と言った。次郎はいきなり右|臂《ひじ》で俊三を突きのけた。俊三はよろよろと縁をよろけて、敷居に躓《つまず》き、座敷の畳の上に仰向けに倒れた。
 彼の泣き声は、家じゅうに響き渡った。
 お民が出て来て、恭一に言った。
「どうしたんだえ。」
「次郎ちゃんが突き倒したんだい。」
「次郎が? どうして?」
「僕知らないよ。」
 恭一は神経質らしく、お民と次郎とを見比べながら答えた。
 お民は、しばらく次郎をうしろからじっと睨めつけていたが、何と思ったのか、そのまま俊三を抱き起こして、茶の間の方に行ってしまった。
 恭一もすぐそのあとについた。
 次郎は、また一人でぽつねんと庭を眺めた。
 そのうちに、彼はゆうべの寝不足のため、うつらうつらし出した。そうしてとうとう縁側から地べたにすべり落ちてしまった。
 幸いに大した痛みを覚えなかった。彼は起き上ってあたりを見まわしたが、誰もいなかったので、安心した
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