父にだけまだ言葉をかけてもらえないでいるのが、非常に気がかりだった。
「ううん、何にも言わないよ。」
誠吉は無造作に答えた。しかし次郎は、そう無造作に言われると、かえって胸が重たくなった。彼は、祖父の自分に対する愛がこのごろ衰えたとは決して思っていない。だが、その愛には何か犯《おか》しがたいものがあって、うっかり飛びついて行けないような気がする。牛肉一件以来彼はそうした気持になっているのである。その意味で、祖父に愛されていることは、彼にとって一つの重荷でさえあると言える。しかし、それだからといって、彼は祖父の愛から逃げ出したい気持には少しもなれない。何といっても、祖父は正木の家では他の誰よりも大きな魅力を持っている。もし祖父の彼に対する愛が少しでも冷めかかったと知ったら、彼は恐らく、春子に別れた時とは全くちがった、あるどす黒い絶望を感じたかも知れない。それほどの祖父でありながら、いざ自分から近づいて行こうとすると、何となく気おくれがする。それはちょうど大海の真青な波に心をひかれながら、思いきって飛びこめないのと同じ気持である。で、彼はいつも遠くから、祖父の本当の気持をそれとなく探ろうとする。ことに今日のようなことがあると、それが一層ひどい。そして、うまくそれが探れないと、彼の気持はみじめなほど憂鬱になって行くのである。
翌日は、彼はもう我慢にも寝ていられなかった。そして起きあがると、お祖父さんの目につくようなところを何度も行ったり来たりして、何とか言葉をかけて貰うのを待っていた。しかしお祖父さんは、いつもちらりと彼の方を見るだけで、容易に口を利こうとはしなかった。次郎は、あとでは、口を利いてさえ貰えばそれがどんな烈しい叱言であってもいいような気にさえなった。しかし、お祖父さんの口は依然として固かった。
次郎は絶望に似たものを感じながら、母の病室に行った。彼は、そこでは、最初から母の叱言《こごと》を予期していた。ところが、母はただまじまじと彼の繃帯でくるんだ顔を見つめるだけだった。そして、かすかな溜息をもらすと、すぐ眼をそらしてしまった。
「お坐り。」
お祖母さんがやさしく声をかけてくれた。彼はやっと救われたような気になって、彼女の横に坐った。
「そのぐらいですんだからいいようなものの、眼でもつぶれてごらん。それこそ大変だったよ。これからはもう花火なんかこさえ
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