土蔵の窓に注意を払いながら、及び腰になって、路地の入口まで忍んで行った。
土蔵の戸口には、果して謙蔵が、大福帳をぶらさげて石のように突っ立っていた。次郎ははっとして後じさりしようとした。しかし、もうその時には、異様な輝きをもった謙蔵の眼が、青ざめた額の下から、ぐっと次郎を睨んで放さなかった。
次郎はすぐ地べたに眼を落した。しかし彼は、自分の右の頬に、いりつくような謙蔵の視線をいつまでも感じていた。
あたりはしいんとしていた。路地の奥では、誠吉が、次郎が何をしてるかを心配しながら待っていた。
やがて、土蔵の戸口から足音がして、次郎の首垂《うなだ》れている顔の前をゆっくり通りぬけた。その足音は、一つ一つ、次郎の鼓膜《こまく》を栗のいがのように刺戟した。
次郎が、やっと自分を取りもどして、誠吉のところに帰って行ったのは、それから二三分も経ってからであった。彼は、誠吉に何をきかれてもはっきりした返事をしなかった。彼は何とかごまかしながら、そのまま誠吉を誘って、村の中を、あちらこちらと日暮ごろまで遊びまわった。
その後、この事件がどんな結果になったかは、謙蔵と次郎だけが知っていた。謙蔵は誰にも次郎の不届きなことを話さなかった。次郎もまたあくまで沈默を守った。誠吉は、次郎との会話を謙蔵に聞かれたとは思っていなかったし、また次郎の言ったことが、人に知られてはならないことのように思われたので、やはり口をつぐんで母にも言わなかった。
謙蔵と次郎の視線は、それっきりめったに出っくわすことがなかった。万一出っくわしても、次郎の視線は、謙蔵の剣のような視線によってすぐ弾《はじ》きとばされた。弾きとばされたのは、彼の視線ばかりではなかった。次郎は謙蔵の眼をさけるために、いつも自分の体の置きどころを考えなければならなかった。――以前からも、彼は謙蔵を避けるふうがあったが、その当時とは意味がまるでちがって来たのである。――彼はなるべく学校のかえりをおくらす工夫をした。出来るだけ魚釣に出た。近所の農家が忙しくて遊び相手がないと、進んでその手伝いもやった。しかし日暮になって家の近くまで帰って来ると、彼の胸には、いつも鉛のような重いものが、のしかかって来るのだった。
彼は、謙蔵を伯父さんとは決して呼ばなくなった。しかしそれは、そう呼ぶのがいやだったからというよりは、呼びたくても、もうそ
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