わっていた。

    三一 新生活

 翌日は本田の一家が出発する日だったにも拘《かかわ》らず、次郎は、平気で学校に行った。みんなも、いっそその方がよかろうというので、強いて休ませようともしなかった。帰って来てみんなの姿が見えなかったら、きっと淋しがるだろうと、正木では気をつかっていたが、別にそんなふうにも見えなかった。
 それ以来、彼の日々は割合平和に過ぎた。気持がのびのびとなるにつれて、喧嘩をしたりすることも、割合に少なくなった。
 土曜から日曜にかけて、正木のお祖父さんや、、お祖母さんにつれられて、おりおり本田の家にも訪ねて行った。しかし、彼が帰りをしぶるようなこととは一度だってなかった。ただ、町の賑やかさは、彼にとって新しい刺戟だった。――町は、人口三四万の、古い城下町だったのである。
 俊亮夫婦は、この町の、割合賑やかな通りに、店を一軒借りて酒類の販売を始めていた。店は間口も相当に広く、菰《こも》かぶりや、いろいろの美しいレッテルを貼《は》った瓶などを、沢山ならべてあって、次郎の眼には眩《まば》ゆいように感じられたが、奥は、以前の家とは比べものにならない、狭い、汚ならしい部屋ばかりだった。恭一と俊三とが机を並べている部屋は、ちょうど店の二階になっていた。そこは物置同様で、鉄格子の小窓がたった一つあいているきりだった。庭もあるにはあった。しかし、それは、隣家の苔だらけの土蔵で囲まれた、ほんの五六坪ほどのもので、そこからは、湿っぽい土の匂いが、たえず室内に流れて来た。次郎は、その匂いをかぐと、すぐ滅入りそうな気になるのだった。ことに、昼間でも真っ暗な、狭くるしい便所に行かなければならないのが、何よりもいやだった。正木の家でなら、もっと明るい、ゆとりのある便所がいくつもあったし、それに小用ぐらいなら、自由に野天で放つことも出来たのである。
 このような陰気な家の中で、顔を合わせる本田のお祖母さんが、次郎にとって、いよいよ不愉快な存在になって来たことは、言うまでもない。家が手狭なだけにお祖母さんの言うこと、することが、始終彼の頭を刺戟した。一緒に食卓につくと、どんな好きなものでも、気持よく腹に納まらないような気がするのだった。
 母の方は、しかし、訪ねるたびに、次第にやさしくなっていくように感じられた。気のせいかうす暗い部屋の中で見る母の顔に、何かしら、しっとり
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