。」
「卑怯だなあ。僕、負けるもんか。」
「そうだい。次郎ちゃんは強いんだい。僕、見に行ってやらあ。」
 竜一までが立ち上った。
「およしったら、喧嘩なんかつまらないわ。……次郎ちゃん、ゆっくりしておいで。竜ちゃんと一緒に、夕飯をご馳走してあげるわ。」
 次郎はまだこの家で飯を招《よ》ばれたことがなかった。子供にとって他人の家の食卓というものは、大きな魅力をもっているものだが、とりわけ次郎にとっては、そうであった。彼のいきり立った気分が、春子にそう言われて、急に柔《やわ》らぎかけた。しかし、すぐ坐りこむのも何だか恥ずかしかったので、彼は立ったままもじもじしていた。
「ね、いいでしょう、お母さんにおねがいしとくわ。」
「次郎ちゃん、ご飯たべていけよ。由ちゃんをなぐるのは、明日でもいいや。」
 竜一も、友達を自分の家の食卓に迎える楽しさに胸を躍らせながら、次郎の手を引っぱった。
「明日になれば、由ちゃんだって、もう喧嘩なんかしたくなくなるわ。だから、今日は外に出ないことよ。なんなら、泊っていってもいいわ。」
 次郎は由夫のことなんか、もうどうでもいいような気になって、すっかり落ちついてしまった。
 夕飯は、茶の間の涼しい広縁《ひろえん》で、大勢と一緒だった。漆塗《うるしぬり》の餉台《ちゃぶだい》が馬鹿に広くて、鏡のように光っているのが、先ず次郎の眼についた。金縁の眼鏡をかけた竜一の父が、ちょうど彼の真うしろに、一人だけ膳についていたが、次郎は、たえず背中をみつめられているような気がして、窮屈だった。しかし、春子が何かと気を配って彼の世話を焼いてくれるのが、たまらなく嬉しかった。彼は、正木の家でのように、自由にたらふく食うことは出来なかったが、何かしら、これまでに知らなかった食卓の潤《うるお》いというものを、子供心に感ずることが出来た。
 夕食を終えると、竜一と次郎とは、裸になって、庭に出してある縁台の上で、腕押しをはじめた。腕押しでは、竜一は次郎の敵ではなかった。次郎は一度くらい負けてやってもいいと思ったが、竜一の方がすぐやめてしまった。竜一は別に残念そうでもなかった。そして、
「一番星見つけた。」
 と、だしぬけに、西の空を指して叫んだ。そこには金星が鮮かに光っていた。
 それから二人は、縁台に仰向けに寝転んで、じっと大空に見入った。そして新しい星を見つけるたびに、や
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