拳を握って振り上げた。しかし、その姿勢はむしろ守勢的で、眼だけが鼬《いたち》のように光っていた。
「竜ちゃん、帰ろう。」
 次郎は、平気な顔をして竜一の方を向いて言った。
 竜一は、まだその時まで、蝗を一疋手に握ったまま、ぽかんとして二人を見ていたが、次郎にそう言われると、すぐそれをなげすてて、
「僕んところに遊びに行く?」
「うむ、行くよ。」
 二人はすぐあるき出した。あるきながら、竜一は、自分の胸にくっついている蝗の首をはらい落した。
「覚えてろ! 竜ちゃんも覚えてろ!」
 由夫は無念そうに二人を見送りながら、何度も叫んだ。

    二四 乱闘

 ひえびえと薬の匂いのする薬局の廊下をとおって、突きあたりの土蔵の階段を上ると、そこが子供部屋になっている。一方の壁には何段にも棚が取りつけてあって、絵本や、玩具が、一ぱいのせてある。すこし暗いが、わりに涼しい。
 次郎は竜一とよくこの部屋で遊ぶ。このごろ彼の遊び相手は、ほとんど竜一だけだと言ってもいいくらいだが、それは竜一に親しみがあるからというよりも、むしろこの部屋が好きだからである。戸外での乱暴な遊びの代りに、本を読んだり、絵を描いたりすることに興味を覚え出した彼にとっては、この部屋が一番しっくりする。いろいろの面白い本が読めるうえに、何となく自由で、心から落ちつけるのである。それに、竜一の姉の春子――去年女学校を出て、看護婦がわりに父の手助けをしている――が、おりおりこの部屋にやって来て、二人の相手になってくれるのが、何より嬉しい。春子を見ると、彼は、いつも、自分にもこんな姉があればいいな、と思うのである。
 二人は部屋に這入ると、すぐ、棚からめいめいに好きなものを引きずり出して遊びはじめた。
 竜一は少し飽《あ》きっぽい性質で、一つの遊びをそう永く続けようとはしない。次郎もこの部屋でだけは、大てい竜一の言いなりになって遊ぶのである。で、間もなく、部屋一ぱいに、いろんなものが散らかった。
「まあ、やっと今朝、きれいにしてあげたばかりだのに。」
 と、梯子段から、春子が白いふっくらした顔を出した。
「姉ちゃん、今日、おやつない?」
 竜一は姉の顔を見ると、すぐにたべ物をねだった。
「おやつなんか、あるもんですか、こんなに散らかして。」
 春子は眉を八の字によせて竜一を睨んだが、本気で怒っているようなふうには、ち
前へ 次へ
全166ページ中92ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
下村 湖人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング