と、そんな疑問が湧いて来た。すると、無性にお浜がなつかしくなって、涙がとめどなく流れた。すっかり暗くなった頃、俊亮が手燭《てしょく》をともして二階に上って来た。彼はしばらく立ったまま次郎の様子を見ていたが、
「次郎、そんな真似はよせ。風邪を引くぞ。……ほら、いいものを持って来た。一人で好きなだけ食べたらさっさと降りて来るんだぞ。」
 手燭《てしょく》を畳の上に置きながら、そう言って、何か重いものを次郎の背中の近くにほうり出した。そして、そのまま下に降りて行ってしまった。
 次郎は、動きたくなかった。しかし、知らん顔をしているのも、父にすまないような気がしたので、父が梯子段《はしごだん》を降りきった頃に、ともかく起き上って、父が置いていったものを見た。それは新しい菓子折だった。そっと蓋《ふた》をとってみると、中にはまだ三分の二ほどのカステラが残っていた。それにナイフが一本入れてあった。
 次郎はむしろあっけにとられた。甘いものが箱ごと自分の自由になるというようなことは、彼の経験の世界から、あまりにもかけ離れたことだったのである。彼は少し気味わるくさえ感じた。そしてちょっと父の心を疑ってみた。が、彼は急いでそれを打消した。それは、さっきの父の言葉が、いつもの快活な親しみのある調子をもって、彼の心に蘇《よみがえ》って来たからである。
 彼は急に食慾をそそられた。で、彼はすぐカステラにナイフを入れはじめた。むろんそう沢山食べるつもりではなかった。しかし、食べているうちにやめられなくなって、何度もナイフを入れた。
 そのうちに、彼は、あんまり慾ばって食べたら父に軽蔑されはしないだろうか、と心配し出した。見ると残りがちょうど箱の半分ほどになっている。切口がでこぼこで非常に体裁がわるい。彼はそれを直すために、もう一度うすく切りとって、それを食べた。そしてナイフを箱の隅に入れ、蓋をした。
(やっぱり、僕は父さんの子だ。)
 彼はその時しみじみとそう思った。しかしまた、彼は考えた。
(だが、どうして僕にだけ次郎なんていう名をつけたんだろう。恭ちゃんはお祖父さんの名から、俊ちゃんは父さんの名からとってつけてあるんだのに。)
 尤も、この疑問は、これまでにもたびたび彼の心に浮かんでいたことなので、少し慣《な》れっこになっていたせいか、さほどに気にはかからなかった。そして、いつとはなしに、
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