それを唱えながら眼をつぶったが、しばらくすると、また眼を開いて、
「俊亮、きょうは家の見納めがしたい。……未練かな。」
俊亮は、その意味がのみこめなくて、みんなの顔を見まわした。
「未練かな。」
と、お祖父さんは、もう一度そう言って、しずかに眼をとじた。
「どうなさろうというんです?」
俊亮は病人の顔を覗きこんだ。
「戸板、……戸板をもって来い、わけはない。」
病人の眼がまたかすかに開いた。
みんなはすぐその意味がわかった。で、正月に餅を並べる時の大きな戸板が、間もなく納屋から運びこまれた。そして病人を敷蒲団ごとその上にのせると、みんなでそれを抱えて、そろそろと家じゅうをまわり歩いた。
次郎は、恭一や俊三と一緒に、その後について廻ったが、人数の多いわりに、いやに静粛だった。みしりみしり畳をふむ音と、おりおり老人たちの口から洩れる念仏の声とが、陰気な調和を保って、次郎の耳にしみた。
仏間に這入ると、すでに、新しい蝋燭《ろうそく》に火がともされていて、仏壇が燦爛《さんらん》と光っていた。念仏の声が急に繁くなった。次郎は、いつぞやそこでお祖母さんを転がした時のことをふと思い浮べたが、念仏の声に圧せられて、その思い出もすぐ消えてしまった。
お祖父さんは、どの部屋に這入っても、うなずくような恰好をしてみせた。次郎は、これまで自分に大して交渉のなかったお祖父さんのそうした表情を珍しく思った。そして、それが何となくなつかしいもののようにすら思えて来た。
二階を除いて、部屋という部屋は、ほとんど一巡された。そして、再び離れの病室に落ちつくまでには、おおかた小半時もかかった。
病人は疲れてすぐ眠った。傾きかけた日が障子を照らして、室内はいやに明るかった。病人が眠ったのを見ると、みんなはぞろぞろと部屋を出て、あとには俊亮とお祖母さんと次郎とだけが残った。
次郎は不思議にお祖父さんの顔から眼を放したくなかった。そのくぼんだ眼と、突き出た頬骨と、一寸あまりにも延びた黄色い顎鬚《あごひげ》とが、静かな遠いところへ彼を引っぱっていくように思えたのである。
「次郎は賢いね。」
お祖母さんは、病人の足を擦《さす》ってやりながら言った。
次郎は、お相母さんにこんな口を利《き》かれると、きっとそのあとに、いやな仕事を言いつかるのを知っていたので、いつもなら、すぐ反感を抱くとこ
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