れを取り出しては、必要もないのにぱちぱちとやり出す。離室に刀掛も飾ってあったが、お祖父さんにとっては刀よりも算盤の方に思い出が多かったし、自然その方に親しみもあった。かといって、お祖父さんに商人らしいところがあるのかというと、そうではない。人柄はあくまでも士族なのである。若い頃は、恐らく、物静かな、事務に堪能《たんのう》な、上役にとって何かと重宝《ちょうほう》がられた侍の一人であったろう、と思われる。
 ところで、このお祖父さんの算盤に対する愛着は、年をとるにつれて、だんだんと神経的になっていった。算盤を弾《はじ》き終ると、右の手のひらでジャッジャッと玉を左右に撫でてから、大事に蓋《ふた》をかぶせ、それをそうっと違棚にのせる習慣であった。そして、もしその算盤が自分の置いた位置から少しでも動いていると、誰かがきっと叱られなければならなかった。お祖父さんに言わせると、蓋をとって、玉の様子を見れば、人が触《さわ》ったかどうかがすぐわかる、と言うのである。
 この大事な算盤の桁《けた》が、いつの間にか一本折れていた。これはまさしく本田一家にとっての大事件でなければならない。お民が厳粛になるのも無理はなかったのである。
 しかし、次郎にとっては、これほどばかばかしいことはなかった。第一、彼は、このごろ離室なんか覗いたこともないし、また覗こうと思ったことすらない。
(それに、算盤が一体何だ。そんなものに触ってみたところで、面白くも何ともありゃしないじゃないか。)
 そう考えると、彼は真面目に母の前にかしこまっているのでさえ無駄なような気がして、一刻も早く仲間のところへ飛び出して行きたかった。
「お祖父さんは、お前たち三人のうちにちがいない、とおっしゃるんですよ。私もそう思います。放りなげでもしなければ、あんなになるわけがないのだからね。」
 そう言って、お民はじろりと次郎を見た。
 次郎は平気だった。しかし、もうその時には随分退屈しているところだったので、眼を天井にそらしたり、膝をもじもじさせたりして落ちつかなかった。
 お民はむろん次郎のそうした様子を見のがさなかった。
「次郎、お前、知ってるでしょう。」
 次郎はにやにやして母の顔を見た。
「ね、そうでしょう。」
 お民はいやにやさしい声をして、たたみかけた。
「僕、お祖父さんの算盤なんか見たこともないや。」
 と、次郎は、
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