た。
それからどのくらいの時間がたったか、ふと、彼は茶の間から聞えて来る大きな声で目をさました。
「じゃ、何ですかい、小さい者が大きい者に向かってなら、どんな乱暴をしたって構わんとおっしゃるんですかい。」
「そうじゃないのさ。さっきからあれほど言っているのに、まだ解らんかね。」
「解りませんね。旦那のような学者のおっしゃるこたあ。」
「じゃ訊ねるが、もし次郎が噛みつかなかったとしたら、一体どうなっているんだい。」
「どうもなりゃしませんさ。」
「どうもならんことがあるものか。あいつは年じゅう喜太郎にいじめられ通しということになるだろう。傷がつかない程度にね。……一体、膝坊主を少しばかり噛み切られるのと、一生卑怯者にされるのと、どちらがみじめだか、よく考えてみてくれ。お前も親分と言われるほどの男だ、これぐらいの道理がわからんこともあるまい。」
庄八は何か答えたらしかったが、急に声が低くなって、次郎にはよく聞き取れなかった。
「そりゃ、梅干ほどの肉がちぎれているとすると、親としては腹も立つだろう。俺も、次郎が犬みたいな真似をしたことを、決していいとは思わん。」
また犬だ。次郎は口のあたりを手のひらでそっとなでてみた。
「そこで、実を言うと、俺も最初は、何とか挨拶に色をつけなきゃなるまいと思っていたところだ。が、だんだん話を聞いているうちに、お前の方で、こちらからそうした挨拶をしないと承知しない、とか言っていることがわかったんだ。……いや、それもいい。そういう要求も別に悪いとは言わん。しかし、万一にもそのことが、お前んとこの喜太郎にわかり、それから次郎にもわかったとしたら、いったいどうなるんだ。……ねえ庄八、お互に子供だけは、金でごまかせない男らしい人間に育て上げようじゃないか。」
「いや、よくわかりました。」
「そこでだ、お前に、もし金が要るんだったら、今度のことに絡《から》まないで、話してくれ。金は金、今度のことは今度のこと、そこをはっきりして、これからもつき合っていこうじゃないか。」
「面目《めんぼく》ございません。ついけちな考えを起しまして。」
「わかってくれてありがたい。……おい、お民、酒を一本つけておくれ。」
次郎の緊張が急にゆるんだ。そして、明日からの毎日が、これまでよりも、ぐっと力強くなるような気がして、存分に手をのばした。同時に彼は、昨日までの父
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