寺の毘盧舍那佛を建立せられた當時、行基などの頭には、此の苦心が、ほの見えて居る、平安朝の初期に至ると、奈良朝の中葉に比すれば、大分支那の文物が理解せられたやうで、思想風尚も大分了解せられた、嵯峨帝が、小野篁に對し、新に渡來した白居易の詩にある、登樓空望往來船といふを、試に、登樓遙望往來船と改められて、これに意見を下問せられたとき、篁は、白居易の書を未だ見ないに、聖作誠によろしいが、遙[#「遙」に白丸傍点]の字を空[#「空」に白丸傍点]と云ふ字にせられたらなほよろしからんと存ずる旨申上げたいたところ、嵯峨帝は御叡感あつたと云ふ話がある、なる程、遙[#「遙」に白丸傍点]の字より、空[#「空」に白丸傍点]の字の方が、此の塲合よろしい、これを、一瑣談と見れば、それまでゝあるが、私はこれを以て、當時の上流社會は、已に深く、支那文學の趣味を有して居り、又其の精髓まで味ひ得たと云ふことの證據であると思ふ、小野篁は元來學問嫌の人で、若いときは、遊獵騎射に耽けて、青年時代を徒消した人である、年がかなりにゆきてから、嵯峨帝の御感化で、學問を始めた人であるが、此の人にして斯の如しだ、當時の上流社會が、漸やく、支那文學を修めて、其の精髓を得たと云ふことが推測せらる、今日の學者は、歐洲の文學をもて囃すが、英文學や、獨逸文學で、其の精髓に達し得たことは、果して、小野篁の如きもの幾人あるか、ものゝ十人とあるか否やは、余輩の疑ふ所である。
宗祖大師の入唐は、嵯峨帝の時代より二代前の桓武帝の延暦二十三年でありますが、桓武帝の御宇は、二十四年であつて、次に即位せられた平城帝は、在位僅に四年であるから、大師の入唐以前の日本の時代と、其の後とは、大差なきことゝ思ふ、大師が入唐以前は、御遺告書にも見ゆる通り、御生年十五の時に、已に今日で申す普通教育を終り、入京の上大學に入りて、經史を修め、佛經を好まれたとの事であるが、中々教育の順序としては、整頓した制度である、御生年二十の時に、剃髮せられて、出家せられたが、其の前後の時には、御自身の告白がある、今日の語で云へば、青年時代にある、煩悶の時代である、殊に天才を有する青年の煩悶時代であるが、匹夫匹婦の煩悶は、飮食の爲めであり、凡庸の人の煩悶は、色欲又は功利の爲めであるが、大師の煩悶は、如何にせば、三乘五乘十二部經が、完全に理解出來るか、會得出來るか、佛法の要諦は何であるかと云ふにある、青年時代に、かゝる眞摯にして、高尚な煩悶は、疑問としても、實に、凡庸人の夢想し得ざることで、今の學生ならば、如何にして、學校を出たのち「パン」を得やうか、はた如何なる妻を迎へやうかと煩悶するのであらうが、大師は、左樣でない、しかし、其の煩悶は、餘程熱烈であつたと見えて、名山大川を跋渉し、毫も艱險を憚らない、或は高嶽の上に孤棲して、修行し、或は怒濤澎湃として、孤峭削れるが如き巖頭に坐して、靜かに、妙理を思索して居られたことがある、殊に私が讀んで、感心致す所は、大和高市郡久米道塲の東塔の下で、大日經を尋ね當てられたときの御告白である、普覽衆情有滯、無所彈問、と云はれた、又更作發心、以去延暦二十三年五月十二日、入唐、爲初學習と云はれて居る、成程大日經と云ふ御經は、今日でこそ、研究もされて居り、註釋もあるから、或は、容易に了解さるゝことゝ思ふが、當時では何人も、讀んで、了解することが出來なかつたに相違がない、一行禪師と善無畏三藏とがこれを譯した時は、西暦七百二十四年であるから、大師が、入唐の年代、即ち西暦八百〇四年迄には、約八十年の間がある、元正帝の養老年間に善無畏三藏は、日本に來られたと云ふ傳説があるが、是れは少しく疑はしいことゝ思ふが、當時のことであるから何人かが、其の手に成つた大日經を、日本に持ち來たことゝ思はれる、しかし、三論や法相など在來の宗派の所依の經典とは、違つて、如何にも、梵語が澤山あり、印度の、風俗などの事も、會得せねば、了解し難き所もある、故に渡來はしても、又一應讀むものがあつても、徹底して、了解することが出來ぬから、自然興味が生ぜず、放任すると云ふ工合であつたが、流石に、大師である、一讀して、難解の書であると同時に、日本では、誰も就きて學ぶ人もない、しかし、是れこそ、吾が年來求めて居つた經典である、これが意義闡明したいものであるとと云ふが、大師入唐の動機である、やうに窺はるゝが、しかし、大師入唐の動機は、これのみではあるまい、なるほど、大日經は大師にとりて貴重の經典であつて、是非唐に赴きて、徹底するまでに學習したいと思はれたに相違はなからうが、入唐せられんとする當時には、二十年間支那に留學する御豫定であつた、大日經七卷の學習に、二十年の歳月が要するとは、我々とても思はない、唯識に關する文學を渉獵せんには、三年はかゝり、倶舍に關す
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