一言することを許して頂ければ――)私は、近代の先達として、ドビュッシイの価値を決して低く見積りはしないが、しかも尚この偉大な先達が、恰かもそれが最も斬新な、正しい音楽であるかのやうに、全く反省するところなしに単なる描写音楽を、例へば「西風の見たところ」、「雨の庭」と言つた類ひの作品を、多く残してゐることに就て、時代の人を盲目とする蛮力に驚きを深くせざるを得ない。そして現今、洋の東西を問はず、凡そ近代と呼ばれる音楽の多くは、単なる描写音楽の愚を敢てしてゐる。斯様に低調な精神から生れた作品は、リュリ、クウプラン、ラモオ、バッハ等の古典には嘗て見られぬところであつた。単なる写実は芸術とは成り難いものである。
言葉には言葉の、音には音の、色には又色の、もつと純粋な領域がある筈である。
一般に、私達の日常に於ては、言葉は専ら「代用」の具に供されてゐる。例へば、私達が風景に就て会話を交す、と、本来は話題の風景を事実に当つて相手のお目に掛けるのが最も分りいいのだが、その便利が、無いために、私達は言葉を藉《か》りて説明する。この場合、言葉を代用して説明するよりは、一葉の写真を示すに如かず、写真に頼
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