と言はれるのも聊《いささ》か心外であるために、先づ、何の躊躇《ため》らう所もなく此の厄介な「芸術」の二文字を語彙の中から抹殺して(アア、清々した!)、悲劇も喜劇も道化も、なべて一様に芝居と見做し、之を創る「精神」にのみ観点を置き、あわせて、之を享受せらるるところの、清浄にして白紙の如く、普《あまね》く寛大な読者の「精神」にのみ呼びかけやうとするものである。
次に又、この一文に於て、私は、決して問題を劇のみに限るものではなく、文学全般にわたつての道化に就て語りたいために、(そして私は、言葉の厳密な定義を知らないので、暫く私流に言はして頂くためにも――)、仮りに、悲劇、喜劇、道化に各次のやうな内容を与へたいと思ふ。A、悲劇とは大方の真面目な文学、B、喜劇とは寓意や涙の裏打によつて、その思ひありげな裏側によつて人を打つところの笑劇、小説、C、道化とは乱痴気騒ぎに終始するところの文学。
と言つて、私は、A・Bのヂャンルに相当する文学を軽視するといふのでは無論ない。第一、文学を斯様な風に類別するといふことからして好ましくないことであり、全ては同一の精神から出発するものには違ひあるまいけれど―
前へ
次へ
全23ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング