らう。高い精神から生み出され、選び出され、一つの角度を通して、代用としての言葉以上に高揚せられて表現された場合に、之を純粋な言葉と言ふべきものであらう。(文章の練達といふことは、この高い精神に附随して一生の修業を賭ける問題であるから、この際、ここでは問題とならない。)
「一つの作を書いて、更に気持が深まらなければ、自分は次の作を書く気にはならない」と、葛西善蔵は屡《しばしば》さう言つてゐたさうであるし、又その通り実行した勇者であつたと谷崎精二氏は追憶記に書いてゐるが、この尊敬すべき言葉――私は、汗顔の至であるが、葛西善蔵のこの言葉をかりて言ひ表はすほかに、今、私自身の言葉として、より正確に説明し得る適当な言葉を知らないので、先づ此の言葉を提出したわけであるが――この尊敬すべき言葉に由つて表はされてゐる一つの製作精神が、文字を、(音を、色を)、芸術と非芸術とに分つところの鉄則となるのではないだらうか。
余りにも漠然と、さながら雲を掴むやうにしか、「言葉の純粋さ」に就て説明を施し得ないのは、我ながら面目次第もない所とひそかに赤面することであるが、で、私は勇気を奮つて次なる一例を取り出すと――
「古池や蛙飛び込む水の音」
之ならば、誰が見ても純粋な言葉であらう。蛙飛び込む水音を作曲して、この句の意味を音楽化したと言ふ人もなからうし、古池に蛙飛び込む現実の風景が、この句から受けるやうな感銘を私達に与へやうとは考へられない。ここには一切の理窟を離れて、ただ一つの高揚が働いてゐる。
「古池や蛙飛び込む水の音、淋しくもあるか秋の夕暮れ」
私は、右の和歌を、五十嵐力氏著、「国歌の胎生並びにその発達」といふ名著の中から抜き出して来たのであるが、五十嵐氏も述べてゐられる通り、ここには親切な下の句が加へられて、明らかに一つの感情と、一つの季節までが附け加へられ説明せられてゐるにも拘はらず、この親切な下の句は、結局芭蕉の名句を殺し、愚かな無意味なものとするほかには何の役にも立つてゐない。言葉の秘密、言葉の純粋さ、言葉の絶対性――と、如何にも虚仮威《こけおどし》に似た言ひ分ではあるが、この簡単な一行の句と和歌とで、その実際を汲んでいただきたい。言葉をいくら費して満遍なく説明しても、芸術とは成り難いものである。何よりも先づ、言葉を使駆するところの、高い芸術精神を必要とする。
文学のやうに、如何に大衆を相手とする仕事でも、その「専門性《スペシアリテ》」といふものは如何とも仕方のないことである。どのやうに大衆化し、分り易いものとするにも、文学そのものの本質に附随するスペシアリテ以下にまで大衆化することは出来ない。その最低のスペシアリテまでは、読者の方で上つて来なければならぬものだ。来なければ致し方のないことで、さればと言つて、スペシアリテ以下にまで、作者の方から出向いて行く法はない。少くとも文学を守る限りは。そして、単なる写実といふものは、文学のスペシアリテの中には這入らないものである。少くとも純粋な言葉を持たなければ、純粋な言葉を生むだけの高揚された精神を持たなければ――これだけは、文学の最低のスペシアリテである。
兎に角芸術といふものは、作品に表現された世界の中に真実の世界があるのであつて、これを他にして模写せられた実物が在るわけではない。その意味に於ては、芸術はたしかに創造であつて、この創造といふことは、芸術のスペシアリテとして捨て放すわけには行かないものだ。
ところで、ファルスであるが――
このファルスといふものは、文学のスペシアリテの圏内にあつても、甚だ剽逸自在、横行闊歩を極めるもので、あまりにも専門化しすぎるために、かなり難解な文学に好意を寄せられる向きにも、往々、誤解を招くものである。
尤も、専門化しすぎるからと言つて、難解であるからと言つて、それ故それが、偉大な文学である理由には毫もならないものである。スペシアリテの埒内に足を置く限りは、よし大衆的であれ、将又貴族的であれ、さらに選ぶところは無い筈である。(尤も拙者は、断乎として、断々乎としてファルスは難解であるとは信じません!)それはそれとしておいて、扨て――
一体が、人間は、無形の物よりは有形の物の方が分り易いものらしい。ところで、悲劇は、現実を大きく飛躍しては成り立たないものである。(そして、喜劇も然り)。荒唐無稽といふものには、人の悲しさを唆る力はないものである。ところがファルスといふものは、荒唐無稽をその本来の面目とする。ところで、荒唐無稽であるが、この妙チキリンな一語は、芸術の領域では、さらに心して吟味すべき言葉である。
一体、人々は、「空想」といふ文字を、「現実」に対立させて考へるのが間違ひの元である。私達人間は、人生五十年として、そのうちの五年分くらいは空想
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