に費してゐるものだ。人間自身の存在が「現実」であるならば、現に其の人間によつて生み出される空想が、単に、形が無いからと言つて、なんで「現実」でないことがある。実物を掴まなければ承知出来ないと言ふのか。掴むことが出来ないから空想が空想として、これほども現実的であるといふのだ。大体人間といふものは、空想と実際との食ひ違ひ[#「食ひ違ひ」に傍点]の中に気息奄々として(拙者なぞは白熱的に熱狂して――)暮すところの儚ない生物にすぎないものだ。この大いなる矛盾のおかげで、この箆棒《べらぼう》な儚なさのおかげで、兎も角も豚でなく、蟻でなく、幸ひにして人である、と言ふやうなものである、人間といふものは。
 単に「形が無い」といふことだけで、現実と非現実とが区別せられて堪まらうものではないのだ。「感じる」といふこと、感じられる世界[#「感じられる世界」に傍点]の実在[#「実在」に傍点]すること、そして、感じられるといふ世界[#「感じられるといふ世界」に傍点]が私達にとつてこれ程も強い現実[#「現実」に傍点]であること、此処に実感を持つことの出来ない人々は、芸術のスペシアリテの中へ大胆な足を踏み入れてはならない。
 ファルスとは、最も微妙に、この人間の「観念」の中に踊りを踊る妖精である。現実としての空想の[#「現実としての空想の」に傍点]――ここまでは紛れもなく現実であるが、ここから先へ一歩を踏み外せば本当の「|意味無し《ナンセンス》」になるといふ、斯様な、喜びや悲しみや歎きや夢や嚔《くしゃみ》やムニャ/\や、凡有《あら》ゆる物の混沌の、凡有ゆる物の矛盾の、それら全ての最頂天《バラロキシミテ》に於て、羽目を外して乱痴気騒ぎを演ずるところの愛すべき怪物が、愛すべき王様が、即ち紛れなくファルスである。知り得ると知り得ないとを問はず、人間能力の可能の世界に於て、凡有ゆる翼を拡げきつて空騒ぎをやらかしてやらうといふ、人間それ自身の儚なさのやうに、之も亦儚ない代物《しろもの》には違ひないが、然りといへども、人間それ自身が現実である限りは、決して現実から羽目を外してゐないところの、このトンチンカンの頂天がファルスである。もう一歩踏み外せば本当に羽目を外して「意味無し」へ堕落してしまふ代物であるが、勿論この羽目の外し加減は文学の「精神」の問題であつて、紙一枚の差であつても、その差は、質的[#「質的」
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