柔い目映《まばゆ》い光を一杯に浴び乍ら行はれてゐて、見てゐると、見れば見る程実に愉しげな歓喜に溢れた遊戯のやうに思はれてしまふのであつた。僕は面白く又愉快になつて、パチパチと手を打ちながらゲラゲラ笑ひ出して見てゐたが、そしたら――
 さうだ、日頃の仇を晴らすのは此の機会を措いては滅多にあるまい、と突然僕の考へが変つたので、僕は早速ミミ夫人に加勢していきなり博士に飛び掛ると、どやしたり蹴飛ばしたり頸筋をゴシゴシ絞めつけたりした。博士は二人に散々やつつけられて悲鳴を上げる根気も失つてゐたが、辛うじて僕達の手を振り切ると這這《ほうほう》の体《てい》で死者狂ひに丸まり乍ら、ひた走りに森の中へ駈け込んで行つた。
「待て!」
 ミミ夫人は厳しくさう叫んだが、その実それは体裁だけで内心悉く鬱憤を晴らしたものらしい、別に追駈けもせずヂッとうしろを見送つてゐたが――突然僕に気が付くと忽ち帯の間からピストルを取り出して、パン!
「ワアッ! タ、助けて呉れ!」
 僕も亦一条の走跡を白く鋭く後へ残して森の中へひた走りに躍り込んでしまつた。
 僕は森の奥深くの、小高い丘の頂上へフラフラとして行き着くことが出来たので、ホッと大きな息を漏して何もかも忘れたやうな気持になつたら、実に大きな青い空が言ひ様もなく静かなものに見えたのであつた。そこで僕が長々と欠伸をしてヒョイと其の時気が付いたら、すぐ目の下の大きな松の木の根つこに、その松の木の洞穴の中へ頭をゴシゴシ押し隠してまんまるく小さく縮こまつた霓博士がブルブル顫えてゐたのだつた。それを見ると突然僕は悲しくなつて、恋に悩む人間といふものは、そして又わけの分らない苦しみや歎きや怖れや憧れを持つ人間といふものは本当に気の毒なものであると思ひやられ、なんだかメキメキ眼蓋が濡れて熱く重たくなつてきたので堪らなくなつてしまひ、
「センセーイ! もう大丈夫ですよ! 奥さんはもう行つちやいました。それから先生、さつきの事は勘忍して下さい。あれはつひ、ハヅミがついてドカドカやつちやつたんですけど、シンから先生が憎らしかつたわけではないのですから――」
 博士は突然首を擡げて振り返ると忽ち闘志満々としてボクシングの型に構え、ブルン! 鋭い真空の一文字を引いた途端に素早く僕の胸倉に絡みついたのだが、渾身の力を奮ひ集めて鼻をグリグリ捻りあげるとヤッ! 僕を山の頂上へ捩ぢ伏せてグタグタにまで踏み潰し蹴倒して紙屑みたいにのしてしまつた。そして晴々と青空を見上げ、如何にも穢はしいもののやうに僕の残骸をポン! と小気味よく蹴り捨てると、
「厭らしい奴ぢやアよ!」――
 苦々しげに呟きを残し、博士は改めて服装を調べ直すと、ひつそりと音《ね》の死んだ真昼間の森を麓へ、あの丸太小屋の森の酒場へと目指して――意気揚々と降つて行つた。



底本:「坂口安吾全集 1」筑摩書房
   1999(平成11)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「作品 第二巻第一〇号」
   1931(昭和6)年10月1日発行
初出:「作品 第二巻第一〇号」
   1931(昭和6)年10月1日発行
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2010年4月8日作成
青空文庫作成ファイル:
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