を扱ふとすれば文学は人間を扱ふ。そして政治、つまりは現実と常識に対する反骨が文学の精神であり、咢堂の精神は概ねかくの如きものであつたと僕は思ふ。
 彼は大臣にもなつたけれども実務家として無能であつて、彼の政治行動は一貫した反骨精神の中に存してゐた。そしてこの反骨と理想と理論は、議会の議席の中にあつて始めて意義を生ずるかといへば、必ずしもさうではない。筆陣を張つても不可はない性質のもので、必ずしも議席を占める意味のない性質のものであつた。なるほど政党に所属してゐたこともあるが、多くは中立であり、中立などといふものは議会政治の邪魔物にすぎない。なぜなら、議会政治は現実に即した漸進的なものであつて、直接民衆の福利に即し実務的な効果を以て本質とする。漸進的な段階を飛びこした革命的な政治理論は議会とは別のところに存在する。蓋し直接民衆の福利に即した政治家は地味であり、大風呂敷の咢堂はさういふ辛抱もできないばかりか、その実際の才能もなかつた。いはば彼の役割は筆陣だけで充分だつたに拘らず、代議士だの大臣などになり、大臣などでは無能でしかなかつたにも拘らず、さういふことが忘れられて、政治の神様などと言はれてゐるところに、大きな間違ひがある。こんな政治の神様がゐては困りもので、実際の政治といふものは社会主義とかニュー・ディールとか実際に即した福利民福の施策を称するものである。彼にはさういふ施策はない。政治家としての実質的な内容に於て、実はゼロであつた。つまりは政治理論家にすぎず、理論家としては決して高度の理論の所有者でもなかつた。
 要するに咢堂は文学的な精神をもつた男であり、「文学の神様」志賀直哉よりは文学的な、人間的な深さをもつてゐるけれども、文学自体の深さにくらべれば低俗な思索家で、真に誠実な人間的懊悩といふものは少い。政治家としては最も傍系的人物であるに拘らず、今日の如くジャーナリズムが彼を政治の主流的存在の如く扱ふことは甚だ危険であることを忘れてはならぬ。

     党派性を難ず

 明治維新の大業が藩閥とか政党閥によつて歪められ、あげくの果が軍閥の暴挙となつて今日の事態をまねくに至つた。閥とか党派根性といふものは日本人の弱点であつて、それによつて日本の生長発展が妨げられてきたことは痛感せられてゐるに拘らず、敗戦後、政治に目覚めよといへば再び党閥に拡る形勢を生じ、正しい批判と内容の目を見失はうとしてゐる。
 民衆は先づ「生活」すべきものであつて、決して党派人たることを要しない。政友会だから民政党の嫁は貰はないといふのは田舎の実話であるよりも笑話であるが、今日でも同じことで、近頃の激化した党派性では、あいつは共産党だから嫁にやらぬとか、あいつはブルジョアの娘だからどうだとか、結局再び同じ笑ひ話が笑はれもせず堂々と横行しはじめる形勢にある。
 人間は先づ生活すべきものであり、生活は常により高い理想に向つて進むべきものであつて、固定してはならないものだ。民衆が政治をもとめ、よりよき政党を欲するのは、自らの生活を高めるための手段としてで、政治家は民衆の公僕だとはその意味だ。先づ民衆の生活があり、その生活によつて政党が批判選択せらるべきで、民衆が党派人となることは不要であり、むしろ有害だ。
 政治は実際の福利に即して漸進すべきものであり、完璧とか絶対とか永遠性といふものはない。政党はその時の状態や条件に応じて民衆の批判を受け、民衆はその都度事態に適合した政策をもつ政党を選ぶのが良い。明日の政治に社会主義が最適ならばその党を選ぶべく、然しその党に固定し、又、束縛せられる必要は毫もない。ところが日本人は党閥に走りがちで、自ら固定し、束縛せられて、生長とか発展とか、正当な変化や広い視野を好んで限定してしまふ。その結果は再び議会政治の正しい運用を忘れ、党派による独裁政治に走ることとなつて、国運の不幸を招く結果となり、民衆の生活を不当に歪める事態を生ずるに相違ない。
 何故にかかる愚が幾度も繰返さるるかと云へば、先づ「人間は生活すべし」といふ根本の生活意識、態度が確立せられてをらぬからだ。政党などに走る前に、先づ生活し、自我といふものを見つめ、自分が何を欲し、何を愛し、何を悲しむか、よく見究めることが必要だ。政治は生活の道具にすぎないので、古い道具はいつでも取変へ、より良い道具を選ぶことが必要なだけである。政治の主体はただ自らの生活あるのみ。自らの生活は宇宙の主体でもあつて、自我が確立せられてのみ国家も亦確立せられるだらう。
 日本に必要なのは制度や政治の確立よりも先づ自我の確立だ。本当に愛したり欲したり悲んだり憎んだり、自分自身の偽らぬ本心を見つめ、魂の慟哭によく耳を傾けることが必要なだけだ。自我の確立のないところに、真実の道義や義務や責任の自覚は生れない。近頃の流行によれば学徒や復員軍人が「魂のよりどころを見失つて」政党運動に走つてゐるといふのであるが、之は筋違ひで、政治は人間生活の表皮的な面を改造し得るけれども、真実の生活は人間そのものに拠る以外に法はない。自我の確立、人間の確立なくして、生活の確立は有り得ない。



底本:「坂口安吾全集 04」筑摩書房
   1998(平成10)年5月22日初版第1刷発行
底本の親本:「堕落論」銀座出版
   1947(昭和22)年6月1日発行
入力:tatsuki
校正:宮元淳一
2006年5月5日作成
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