判と内容の目を見失はうとしてゐる。
民衆は先づ「生活」すべきものであつて、決して党派人たることを要しない。政友会だから民政党の嫁は貰はないといふのは田舎の実話であるよりも笑話であるが、今日でも同じことで、近頃の激化した党派性では、あいつは共産党だから嫁にやらぬとか、あいつはブルジョアの娘だからどうだとか、結局再び同じ笑ひ話が笑はれもせず堂々と横行しはじめる形勢にある。
人間は先づ生活すべきものであり、生活は常により高い理想に向つて進むべきものであつて、固定してはならないものだ。民衆が政治をもとめ、よりよき政党を欲するのは、自らの生活を高めるための手段としてで、政治家は民衆の公僕だとはその意味だ。先づ民衆の生活があり、その生活によつて政党が批判選択せらるべきで、民衆が党派人となることは不要であり、むしろ有害だ。
政治は実際の福利に即して漸進すべきものであり、完璧とか絶対とか永遠性といふものはない。政党はその時の状態や条件に応じて民衆の批判を受け、民衆はその都度事態に適合した政策をもつ政党を選ぶのが良い。明日の政治に社会主義が最適ならばその党を選ぶべく、然しその党に固定し、又、束縛せられる必要は毫もない。ところが日本人は党閥に走りがちで、自ら固定し、束縛せられて、生長とか発展とか、正当な変化や広い視野を好んで限定してしまふ。その結果は再び議会政治の正しい運用を忘れ、党派による独裁政治に走ることとなつて、国運の不幸を招く結果となり、民衆の生活を不当に歪める事態を生ずるに相違ない。
何故にかかる愚が幾度も繰返さるるかと云へば、先づ「人間は生活すべし」といふ根本の生活意識、態度が確立せられてをらぬからだ。政党などに走る前に、先づ生活し、自我といふものを見つめ、自分が何を欲し、何を愛し、何を悲しむか、よく見究めることが必要だ。政治は生活の道具にすぎないので、古い道具はいつでも取変へ、より良い道具を選ぶことが必要なだけである。政治の主体はただ自らの生活あるのみ。自らの生活は宇宙の主体でもあつて、自我が確立せられてのみ国家も亦確立せられるだらう。
日本に必要なのは制度や政治の確立よりも先づ自我の確立だ。本当に愛したり欲したり悲んだり憎んだり、自分自身の偽らぬ本心を見つめ、魂の慟哭によく耳を傾けることが必要なだけだ。自我の確立のないところに、真実の道義や義務や責任の自覚は生れない。近頃の流行によれば学徒や復員軍人が「魂のよりどころを見失つて」政党運動に走つてゐるといふのであるが、之は筋違ひで、政治は人間生活の表皮的な面を改造し得るけれども、真実の生活は人間そのものに拠る以外に法はない。自我の確立、人間の確立なくして、生活の確立は有り得ない。
底本:「坂口安吾全集 04」筑摩書房
1998(平成10)年5月22日初版第1刷発行
底本の親本:「堕落論」銀座出版
1947(昭和22)年6月1日発行
入力:tatsuki
校正:宮元淳一
2006年5月5日作成
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